満蒙皇軍慰問公演 ― 一万キロ―
MHKテレビの朝の連続ドラマ『わろてんか』で、「皇軍慰問」が行われていたことが放送されました。同様のことを本学でも行っていましたので、ここに紹介します。
満蒙への皇軍慰問団は、小原國芳を団長に生徒35名と引率教員で、1940(昭和15)年6月10日から7月25日までの一か月半、各地を巡り、公演を行った。一行は下関から釜山に渡り、大邱、京城といった都市でも公演を行って満洲に入った。公演は、「小原國芳の講演、体操・舞踊の実演、合唱」という構成で行われた。
1.大陸から、そして大陸へ
玉川学園は、1932(昭和7)年に建国された満洲国より、翌年に4名の留学生を受け入れた。そして、1934(昭和9)年に留学生部を設置。その年42名の満洲国からの派遣留学生を迎えた。玉川学園における留学生部の活動期間は決して長いものではなかったが、そこには「アジアの外交は玉川の丘より」を提唱する玉川学園創立者小原國芳の想いが結実していたのではないだろうか。1942(昭和17)年、中学部の生徒は406名で、アジアからの留学生だけで25名が在籍していた。
留学生を受け入れるだけではなく、玉川学園からも公演を目的に生徒たちを満洲などへ派遣した。1938(昭和13)年には6名による皇軍慰問隊が上海、南京、漢口等に出かけた。
2.満洲研究
1940(昭和15)年4月から6カ月間にわたり「満洲研究」というテーマで、学園あげての大規模な合同研究である総合学習が行われた。6月1日から3日の間、国民学校研究発表会では「満洲研究」の学習公開が行われた。特に小学部の「満洲研究」に関連した総合学習に注目が集まった。地理や歴史に留まらず、算数では満洲旅行の日程旅費の計算を扱うなど、各教科で「満洲研究」をテーマに学習が進められた。「満洲研究」によって、満洲に行ってみたいという気運は盛り上がった。
3.公演旅行
1936(昭和11)年2月、東京・九段の軍人会館(後の九段会館)で行われた玉川学園の学園祭の舞台で生徒たちは体操や合唱を披露し、喝采を浴びることとなった。こうした雰囲気の中で、「この成果を地方でも公演できたら」という提案がなされ、玉川学園の公演旅行は実現に向けてスタートを切った。
第1回公演旅行は秋田県の大曲を起点に、十文字、金足、追分、本庄、西目、酒田、鶴岡、坂町、新発田を経て新潟を最終会場にして実施された。生徒は専門部や中学校、女子高等部、女学校などから約30名が参加。小原國芳の講演と生徒たちの体操や合唱の披露は、各地で喝采を浴びた。第2回以降の公演旅行は関西・九州地方、東海地方、関西地方、土浦・日立方面、広島・九州方面、宇都宮、吹田市・天王寺など、まさに全国を回るものであった。
4.満蒙への皇軍慰問団
公演旅行は国内に留まらず海外でも行うこととなり、皇軍の慰問を兼ねて計画された。各公演地の交渉役として「歴史」担当の吉田孝と「経済」担当の原正一の両教諭を先発隊として派遣。そして、「満洲研究」というテーマで総合学習が行われていた1940(昭和15)年6月10日に、満蒙への皇軍慰問団が、朝鮮、満洲、蒙古へ出発した。
引率者は、団長が小原國芳学園長(当時)、女子担当が小原信夫人、そして父母の白石嵯峨。引率者と35名の生徒は、6月11日に下関から船で釜山に入り7月24日まで延べ45日間にわたって、陸軍病院39カ所、部隊慰問、満鉄関係、師範学校、その他小・中・女子校、一般の人々への発表なども含め、50数回の音楽や体操の公演を披露した。1日3回の公演はたびたびで、大邱などでは1日5回も公演。7月19日に門司に戻り、帰園途中で、折尾、大島商船学校や大阪などでも公演を行い、7月25日に帰園した。公演の様子は、6月18日付の滿州日日新聞に「“新體操”を實演 玉川學園の一行あす奉天へ」というタイトルで紹介されている。
参加した生徒の中に、専門部3年の小原哲郎(のちに玉川学園理事長・学長・学園長)、女子高等部3年の橋本春江(のちに小原哲郎夫人)、女子高等部4年の小原百合子(國芳の長女/のちに玉川学園女子短期大学教授)、女学部1年の小原純子(國芳の次女/のちに玉川大学講師)、中学4年の橋本道(のちに文学部教授)などが含まれていた。慰問公演中、体操担当が小原哲郎、音楽担当が専門部3年の栗林昭一、ピアノ伴奏は女子高等部2年の内藤弘子が担当した。
1940(昭和15)年9月1日発行の「全人」第92号(玉川学園出版部発行)は皇軍慰問隊号として、慰問公演の様子を詳細にわたって紹介している。日にちごとに参加した生徒たちが分担して、公演先や見学場所を含めた一日の様子を記載している。その公演先などを下の表にまとめてみたが、公演先会場の学校名などがわからないものもある。それについては、生徒たちが記載したままの表現で、ここでは表に載せることとした。
月 | 日 | 場所 | 主な公演先会場 |
---|---|---|---|
6月 | 11日 | 釜山 | 第七小學校 |
12日 | 三島高女 | ||
13日 | 晋州 | 豐田先生の學校 | |
14日 | 晋州小學校、馬山中學校 | ||
15日 | 大邱 | 女學校、陸軍病院、公立普通學校、小學校、公會堂 | |
16日 | 京城 | 女子師範學校 | |
17日 | 安東 | 安東高女、安東公會堂 | |
18日 | 奉天 | 國民學校 | |
19日 | 雪見高等小學校、朝日高女 | ||
20日 | 第二女子國民高等學校 | ||
21日 | 女子師範學校、陸軍病院 | ||
22日 | 治安部陸軍病院 | ||
23日 | 錦縣 | 滿鐵主催の運動會、錦州高女 | |
24日 | 承德 | ||
25日 | 日本人小學校、治安部病院、陸軍病院 | ||
26日 | |||
27日 | 撫順 | 七絛小學校 | |
28日 | 新京 | 協和會館、新京放送局、滿鐵クラブ | |
29日 | 哈爾浜 | 滿鐵クラブの野外音樂堂 | |
30日 | 花園小學校 | ||
7月 | 1日 | 松花江下り | |
2日 | 佳木斯 | 日本人小學校 | |
3日 | 陸軍病院、滿系の小學校 | ||
4日 | 牡丹江 | 日本人小學校、厚生會館 | |
5日 | 圖們 | ||
6日 | 延吉 | 農業學校、新富劇場(中学・女学校の高等科)、陸軍病院 | |
7日 | 吉林 | 小林部隊の兵營 | |
8日 | 旭小學校、滿鐵厚生道場 | ||
9日 | 新京 | 治安部病院 | |
10日 | 敷島高女、朝日丘高女、錦ケ丘高女、大同公園野外劇場 | ||
11日 | |||
12日 | 奉天 | 千代田小學校 | |
13日 | 女学校、千代田公園野外劇場 | ||
14日 | 大連 | 協和會館 | |
15日 | 旅順 | ||
16日 | 山田先生の學校、滿鐵クラブ | ||
17日 | 大連を出發して船で歸路につく(11時に出帆)。 | ||
18日 | |||
19日 | 午前7時半に門司到着。汽車で折尾へ向かう。 | ||
20日 | 折尾 | 學校、炭坑 | |
21日 | 山口 | 山口縣小郡小學校 | |
22日 | 商船學校、麻里布小學校 | ||
23日 | 大阪 | 大阪茨木高女 | |
24日 | |||
25日 | 東京到着後、宮城参拝。 |
小原國芳は、この大胆にして無謀とも思われる計画を回顧して『小原國芳全集・身辺雑記(3)』皇軍慰問-満蒙研究56ページにその苦労と成果を、「南京虫にかまれながら、酷暑と戦いながら、時には板の間にゴザ敷いて寝たり、なれない食事を頂いたり、よく続きました。
(略)
特に兵隊さんに喜んで頂きました。無邪気でかわゆくて、素朴で、真剣で!
(略)
「子供たちは純真だからいい」と。一番評判でした。全くよかったです。宮城前に報告した時は、ただ涙でした!親たちも御心配でしたろう。よくやって下さいました!」と述べている。
参考文献
- 小原國芳監修『全人』第92号 玉川学園出版部 1940年
- 小原國芳著『小原國芳全集 第23巻 教育講演行脚・身辺雑記 3 (小原國芳全集 23)』 玉川大学出版部 1974年
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年
- 小原國芳監修『玉川教育-玉川学園三十年-』 玉川大学出版部 1960年