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玉川大学図書館

2017.12.11

「真理探求に絶対不可欠の最高の条件は実に書籍です。図書館は実に学校の心臓です」と創立者が掲げた『読書論』に記述されている。玉川学園創立の年に誕生した図書館は、創立者のこの思いとともに発展していった。

1.小原國芳の読書論と図書館

教育学術情報図書館の2階入口に、小原國芳の筆による「讀書萬巻始通神」の大きな扁額が掛かっている。同じく2階にあるおやじさんの書斎(Book Salon)の壁には「男児須讀五車書」が掲げられている。両方とも、以前の大学図書館本館の玄関のところにあったものである。

「讀書萬巻始通神」は多読をすすめた國芳の精神を表している。「讀書萬巻始通神」について、『全人』No.766(玉川大学出版部発行)では次のように記述されている。

中国北宋時代の詩人・蘇軾が詠んだもので「どくしょまんがん はじめてかみにつうず」と読む。万巻の書物を読み、はじめて物事の神髄を極めることができるという意味だ。

「男児須讀五車書」についても『全人』No.766(玉川大学出版部発行)に次のように記述されている。

「だんじすべからくごしゃのしょをよむべし」と読む。中国唐代の詩人・杜甫が詠んだもの。図書館所蔵の小原文庫の一部に、この印(男児須讀五車書)が押されている。文字通り、男児たるもの5台分の車に積まれる本を読まなければならない、という意味だ。國芳自身は、京都大学での1,500枚におよぶ卒論執筆に大八車1台分の本を読んだそうだ。いったい何冊積まれていたのだろうか。

國芳が掲げた「読書論」の中には、次のような記述がある。

「知識は力」(ベーコン)です。「知識は吾人が天をかけめぐる翼」(シェイクスピア)です。かくて、真理探求に絶対不可欠の最高の条件は実に書籍です。図書館は実に学校の心臓です。「書籍の集りたるは則ち真正の大学なり」とカーライルも喝破しました。 (季刊誌『玉川教育』(1960年7月号)より)

國芳は、著書『母のための教育学』で、子供たちの読書について、次のように述べている。

精読と同時に多読をホントにおすすめいたします。私たちは、ワザワザ読書という時間をおいているぐらいです。各教室には少なくとも百冊以上の本を用意しております。その目的は、第一には、この読書ぎらいな日本人をして読書好きにならしめるためです。これは大事なことで、私は、これで国語科の目的の半分は達したものと思います。・・(略)・・実に読書は知識開拓の門戸でありますし、しかも何という貴い趣味でしょう。

2.玉川学園図書館の誕生

図書館は、1929(昭和4)年、玉川学園の開校の年の7月9日に起工し、同年8月5日に完成。学園キャンパスのほぼ中央にある聖山の斜面、現在の礼拝堂の東北側、観音庭園があるところに、玉川学園図書館として誕生した。木造の3階建てで、閲覧室、特別閲覧室、書庫(3層)、事務室が設置されていた。玉川学園校歌を作詞した田尾一一が図書館担当として中心となり、購入図書の選書、収集、整理などを行い、8月15日に開館。蔵書数約10,000冊。木造の図書館は、1966(昭和41)年3月までの37年間、教育や研究に貢献し、多くの人たちに愛され、親しまれた。

建設中の図書館(昭和4年)
図書整理(昭和4年)
建設中の礼拝堂(左上)と図書館 (礼拝堂の左下) (昭和5年)
図書館(昭和5,6年頃)
当時の書架

3.図書館の発展

図書館が開館して10年が経過した1939(昭和14)年の蔵書数は26,000冊であった。その2年後、3年後に、興亜工業大学の設置を目指して、大量の図書の収集を実施。時には書店の書庫ごと買い込んだ。図書の寄贈の呼びかけも大々的に行った。それらの図書は、新宿駅から玉川学園前駅の引き込み線まで、小田急の貨車で運搬。駅から図書館までは、教職員や生徒たちの労作によって運ばれた。その結果、1941(昭和16)年10月1日の時点で蔵書数は146,817冊となった。このことにより、従来の学校図書館的な性格から、大学図書館的な機能への発展的な変革を必要とするに至った。

戦後の図書館は、連合軍総司令部より戦争に関係する書籍の没収指令があり、蔵書の検閲など厳しい監査のもとにあった。1945(昭和20)年末から翌年3月にかけて、数度にわたる連合軍総司令部教育担当官の訪問、米国教育使節団の参観があった。担当官や使節団は、戦前、戦中を通じて、一貫して全人教育を実践してきた玉川学園の教育を高く評価した。さらに1947(昭和22)年4月に連合軍総司令部学校図書館主任のグラハム女史が本学図書館を訪れ、「日本の多くの学校図書館をまわってアドバイスをしてきたが、私が理想としている学校図書館がここにあった。ここでは何もいうことはない」と称賛した。また、1949(昭和24)年7月9日には、高松宮御夫妻が来園し、図書館も見学された。

高松宮御夫妻がご来園(昭和24年)
通信教育のスクーリング生の図書館利用(昭和25年)

4.玉川大学図書館に改名

波多野文庫

1945(昭和20)年の玉川工業専門学校、翌年10月の旧制玉川大学、1948(昭和23)年7月の新制玉川大学の設置認可申請、さらには翌年の通信教育部の設置申請と相次ぐ教育組織の拡大により、図書館もそれに応じた図書の収集や蔵書審査に備える必要が生じた。そのような状況の中、1948(昭和23)年6月に玉川学園図書館から玉川大学図書館に名称を変更。ただし、大学の図書館であると同時に玉川学園の総合図書館として位置づけ、体制を整備した。開館時間は午前8時30分。閉館時間は午後8時。その年度の開館日数は313日。図書の利用冊数は7,722冊。専門関係の新刊書や古書のほか、小原文庫、前田文庫、波多野文庫、野間文庫などの貴重な文庫が収集された。

図書館玄関(昭和33年)

1951(昭和26)年4月、前玉川大学事務局長の高井望が専任の図書館長として就任。館員4人という陣容で、3つの改革をスタートさせた。1つ目の改革は、閉館時間を午後8時から午後9時に延長したこと。開館日数も1955(昭和30)年度は年間346日という驚異的な記録が残っている。改革の2つ目は、本学図書館の先駆的な取組が評価される中で、1951(昭和26)年10月に私立大学図書館協会に加盟し、翌年の6月に同協会関東部会理事校、さらに1965(昭和40)年には全国のまとめ役として同協会の代表校・常任理事校となり、学外でも貢献した。そして改革の3つ目は、図書館の移転と図書室の設置であった。

5.図書館の移転

図書館は昭和初期の木造の建物ではあったが、50年は使用できる予定で建てられた。ところが年々図書が増え続け、貴重書も多くなり、収容能力の限界に達した。そこで1966(昭和41)年4月、当時の玉川学園女子短期大学校舎に移転した。しかし、短大との同居ではすぐに収容能力に限界が生じることはわかっていた。そこで新たに建設される文学部第3校舎(現在の本部棟)の西半分を図書館にする計画が進められた。そして、翌々年の1968(昭和43)年11月、新たに建設された図書館に移転した。総面積は4,133㎡。3階からなり、1階は事務室、2階は総合目録室(参考調査室)と第2閲覧室、3階は常時20,000冊の図書を開架する閲覧室、そして収容可能冊数300,000冊の積層式4層からなる書庫等が設置されていた。

図書館本館(左)と文学部第3校舎(現在の本部棟)
図書館本館
図書館本館3階閲覧室
図書館本館3階閲覧室
図書館本館3階書架
図書館本館2階第2閲覧室
図書館本館2階参考調査室
図書館本館2階参考調査室
図書館本館書架
図書館本館書架

1958(昭和33)年7月に、初めて大学図書館の分室として、学園本部前に、文学部と農学部共通の学部図書室が設置された。以後、分室は、昭和30年代から40年代初めにかけて、文学部、農学部、工学部、女子短期大学の各部校舎に設置された。そして図書館の活動範囲はしだいに拡大し、館員数も、1956(昭和31)年度6名から、1968(昭和43)年度20名と増員され、近代的な、そして体系的な大学図書館へと発展していった。1977(昭和52)年には蔵書数が409,422冊となった。この年、各図書室を含めた蔵書を検索できるコンピュータシステム構築の準備として『玉川大学図書館蔵書目録』(冊子体)のデータ作成を開始。1989(平成元)年4月より、この10年分のデータを基にした「オンライン文献検索システムOPAC」を公開し、さらに1996(平成8)年4月より、貸出・返却システムの運用をスタートした。この年の蔵書数は753,611冊であった。

学園本部前にあった図書室/
昭和33年(左)と昭和36年(右)
工学部図書室
農学部図書室

6.玉川大学教育学術情報図書館として新たに開設

図書の増加等により、またアメリカ、カナダの大学図書館がラーニング・コモンズの導入へと進展していることを踏まえ、新たな図書館建築計画が検討された。2008(平成20)年、新図書館構想のメインコンセプトを「従来の図書館を『学修の場』にシフトしていく」に決定して具体的な計画が進められた。そして、2015(平成27)年4月に大学教育の質保証を支える学修の場として大学教育棟 2014が開館し、その中に「教育学術情報図書館(以降、本学図書館と略す)」という名称のもとに新図書館を開設した。本学図書館はもはや本を置くだけの場所ではなく、館内にラーニング・コモンズを開設し、ITサポート・デスク、学修サポート・デスクを設けて、専門の教職員が支援を行う。図書館の資料は、図書・デジタル情報資源(電子ジャーナル、電子書籍、データベース、学術リポジトリー)を組み合わせて提供するようになった。その結果、2016年度データで前図書館と比較すると、入館者数は2倍強の延べ536,491人、貸出冊数は1.5倍の104,387冊となった。

【図書館データ】

  • ①専有面積:
    「大学教育棟 2014」の1階から3階及び4階の一部で合計:9,022㎡
  • ②蔵書冊数:
    995,991冊(2022年度末)
  • ③収容可能冊数:
    最大約130万冊(最大約85万冊収容可能な自動書庫を含む)
  • ④席数:
    1,040席(これは学生収容定員数の約15%にあたる)
    • 個室96室、個人キャレル席84席を含む
【参考】

創立当初に建てられた図書館の入口にあったステンドグラス。現在は大学教育棟 2014の2階の図書館カウンター横に設置されている。

関連サイト

参考文献
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 小原國芳監修『玉川教育-玉川学園三十年-』 玉川大学出版部 1960年
  • 小原國芳著『母のための教育学』 玉川大学出版部 1982年
  • 白柳弘幸著『玉川の丘めぐり27』「精読と同時に多読を『讀書萬巻始通神』」
      (小原芳明監修『全人』No.766 玉川大学出版部 2012年 に所収)
  • 白柳弘幸著『故きを温ねて12』 「『日本敎育への第一の祈りを』兒童圖書館の建設」
      (小原芳明監修『全人』No.783 玉川大学出版部 2014年 に所収)
  • 白柳弘幸著『故きを温ねて23』 「實に讀書は知識開拓の門戸」
      (小原芳明監修『全人』No.794 玉川大学出版部 2015年 に所収)
  • 諸星洪著『玉川のおやじ』 玉川大学出版部 1976年

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