玉川豆知識 No.101

玉川学園に来園したお客様③ 1957(昭和32)年~1960(昭和35)年

エルヴェール教授

フランスの東洋学者(マハトマ・ガンジーとも親交があった)でジュネーヴ大学教授。視察及び講演のために1957(昭和32)年12月に来園。幼稚部から小学部中学部、大学の各部を見学後、高等部で授業風景をご覧になりました。各場面で感激され、特にピアノ製作室での作業には「フランス大使にも見てもらうよう伝える」とまで言われ大感激の様子でした。その後、講堂で「ガンジーの非暴力」というテーマで講演。教授が講堂に入場すると生徒たちが「フランス国歌」で迎え、終了後はフランス歌曲、印度国歌、そして「第九」の「全人類は兄弟になる」の一節でお送りしました。この歓迎には大変驚かれ、感激されていました。それから体育館で玉川体操の妙義に歓喜され、出版部編集室での三大百科(児童百科大辞典玉川こども百科・玉川百科大事典)には驚歎されていました。その後、塾の夕食の集いに参加され、小原園長の家に宿泊。翌朝小学部の朝会をご覧になり帰園されました。

キャズウェル博士

アメリカの教育者でカリキュラムプランニングの権威者。当時コロンビア大学の教育大学の学長でマニラ大学に公演旅行の途中、2月下旬に来日、新教育に関係深い博士は特に玉川大学を視察したいという希望で1958(昭和33)年2月28日に来園しました。小学部の大運動場(経塚グラウンド)のスタンドにある国旗掲揚塔の星条旗前で記念撮影をし、小学部(音楽室・美術教室・楽器製作室)、中学部(美術教室・理科室・応接室・算数研究室・社会科室)高等部・大学(音楽教室)で生徒や学生たちの授業風景、体育館で玉川体操(基本体操・整美体操・棍棒体操・ボール体操・巧緻体操)を見学。最後は玉川体操歌でお送りしました。「子どもたちの学習と、歌と、その他いろいろなものを見てすべてが驚きで、日本での収穫のうち大きなものの一つです」と感想を述べられていました。

マニケ博士

デンマークの農業協同組合活動の権威で国際国民大学の学長をしていたマニケ博士。本学の高井泉教授とマニケ博士は親交があった。高井がデンマーク滞在中に親しく教えを受けた旧知の間柄である。そんな関係で日本に興味を持っていたマニケ博士はチンメルマン博士の著書「未来の学校-小原國芳と人と仕事」を読んで、「玉川をゼヒ見たい」と1958(昭和33)年4月9日に来園。この日は小原國芳学園長の案内で小学部生が製作したピアノやバイオリンをご覧になった後、中学部では自学体制の模様を見学。高等部では音楽教室において生徒全員に対して「すべて、自然環境がそれぞれの人間性を作るものである。どうぞ日本人である諸君は日本人らしい大人になって頂きたい」とデンマークを例にしたお話をされました。最後に体育館で男子の基本体操や女子によるポール体操を「すばらしい」と感激の嘆声を洩らしながら熱心に見入って「今日は朝からデンマークに帰っているような錯覚を起こすほど楽しい一日であった」と喜んでいただきました。

アメリカ比較教育学者一行

世界比較教育学会に出席するために来日中のアメリカ比較教育会員21名が会議に先立ち、視察のため、1959(昭和34)年8月21日に来園。前年に来園されたキャズウェル博士から「日本にいったら玉川を見よ。小原の学校を見よ」と勧められての視察となりました。
この日は午前9時半に1台の大型バスで到着。団長ブリックマン博士が一人ひとりを小原学長に紹介。固い握手。直ちに小原の案内で小学部、中学部の実況視察。教室内はもちろん、広い校庭の所々に配置された数多くの美術作品をはじめ、種々の花々が咲き乱れている様を見て「学問のみが教育ではない。全くすばらしい教育だ。すべての場面に現れている」と小原教育を絶賛。また、小学部大運動場のスタンドの国旗掲揚塔には本日の来園者への敬意を表するために、星条旗が翩翻とひるがえっており、一行はそれにも大喜びされました。正午は眺望のよい三角点(経塚山)の茶室で明るい和やかな昼餐会。午後1時からは通大生のスクーリング開講中の理科実験室へ。百をこえる顕微鏡をならべての熱心な実験ぶりには、一同驚嘆の声を洩らしました。こうして、残暑の日照りの中を丘から谷へ、谷から橋へと、美術教室、生物学実験室、音楽室、体育館、工芸館、舞踊教室とくまなく廻って最後にお客の間に到着したのは午後4時。「日本新教育運動」や「玉川教育」についての英文パンフレットをお渡しした後も真剣な数々の質問が続き、「このように発展の一路をたどる玉川学園は、世界の教育者にとって一つの驚異です」という言葉をいただきました。

ライトナー大使とデングラー博士

オーストリア大使のライトナー氏とウィーン大学教授で教育学博士のデングラー氏が「ゼヒ玉川をみたい」ということで、1959(昭和34)年10月5日に来園。ライトナー大使は数年前、玉川の学校劇「ピノキオ」を青年会館で見たことがあり、その時から玉川への見学を希望していたそうです。この日は美術、音楽、ピアノ、バイオリン工場、理科、語学、地理、歴史と各場面をとても熱心に見学され、昼からは三角点(経塚山)にある中学生の労作で造られた茶室で昼食。昼食後は、高等部・大学の美術教室を見学。そして、大学生の音楽、体操をご覧になり、心から喜んでいただきました。午後2時からは礼拝堂で大学生に講演をしていただきました。最後は「送別の歌」と第九シンフォニーのLの節で賑やかにお送りしました。その歌声に教授も大使も坂を下りながら礼拝堂から響く力強い「第九」にうなづき、満面の笑みを浮かべてお帰りになられました。

レデファー博士

ニューヨーク大学の教育学の教授。夏に日本で開催された世界比較教育学会に出席。その会議に出席した比較教育学者の方々で玉川を見学した人たちから、玉川のことを聞いていたレデファー博士は参観の希望を抱き1959(昭和34)年10月9日に来園。この日は美術室を先にご覧になり、一人ひとりの子供たちの作業を入念に見て、「ワンダフル」と子供たちに声をかけ、音楽室では子供たちの歓迎の歌に同調されアメリカ国歌を自らも高らかに歌われました。ピアノ・バイオリン製作室では子供たち自身が楽器を製作している姿に驚かれていました。快活な教授は各部屋で子供たちに質問したり、頭をなでたり。小学1年生の子供たちが、テープレコーダーから出る英語の聴音器を耳にはさみながら発音していると、「アメリカでも、こんなことなかなかやれない」といって喜ばれていました。さらにお昼の茶室でも雄大な景色に大変感激されている様子でした。午後は高等部、大学の美術室を見学。最後に小原学長の自宅で百科大辞典を贈呈すると、大いに喜ばれ、編集上の苦心や売れ行き、経営上のことや塾教育など、熱心な質問を次々とされていました。

ボルノー教授

ドイツの教育哲学者で、テュービンゲン大学教授。東京で開催の世界比較教育学会に出席するために来日していました。シュプランガー教授の「日本にいったら、ゼヒ玉川を見よ」といわれたのがきっかけで、1959(昭和34)年10月14日に来園。この日はまず、学園の敷地の広さにびっくりされていました。そしてその広大なキャンパスの見学がスタート。見学の途中、印刷室で生徒たちが印刷した教授の名刺や、美術室で制作した染物を差し上げました。地理教室では中学生たちが教授を待ち受けてドイツの話をいろいろと聞きました。最後にベートーヴェンの第九シンフォニーのLの章を歌うとボルノー教授は大喜びされ、ご自身もきれいな発音で歌っていました。

今回の来園のほかに、1966(昭和41)年にもボルノー教授は玉川を再訪しています。その時、学生を指導する講師として、数回の講義を行った後、「ぜひ名誉教授に」という玉川大学の申し出も快諾しています。そうした関係から生まれたのが玉川大学出版部が発行している「世界教育宝典」の1冊『人間学的に見た教育学』。ボルノー教授による書き下ろしです。刊行は1969(昭和44)年。まさに玉川学園の創立40周年の年であり、何よりの贈り物となりました。ボルノー教授自身も「代表的著作と自負する。世界で最初の版が玉川大学出版部から刊行されることを誇りとする」と訳者宛の私信で記しています。ボルノー教授はその後も5回にわたって玉川大学を訪問。学生たちに平易な形で哲学と教育学の本質を説くと同時に教員と親交を深め、玉川大学の教育研究の発展に多大な支援を行いました。このような永年にわたる日独文化交流と日本の哲学・教育学への功績により、1986(昭和61)年度秋の叙勲で勲三等旭日中綬章を受章しました。

関連リンク

トレンドル大使

スイス大使。ペスタロッチ祭での講演のために1960(昭和35)年2月17日(ペスタロッチの命日)に来園。講演内容は非常に学問的で尊いものを感じるものでした。この日は講演前に、「ゼヒ、玉川教育の実際を見せてほしい」とのことで、小学部、中学部等2時間にわたって見学されました。礼拝堂でのペスタロッチ写真展、出版部のペスタロッチ全集の翻訳をはじめ、10種類以上のペスタロッチ研究書、それに、20数名のペスタロッチ研究の卒業論文を念入りに見られました。ステージ奥のスイス国旗掲揚や美術部生たちの描いた2つの大きな油絵「ペスタロッチ」と「アンナ」の作品展示には殊の外、喜ばれていました。

ラッグ博士

アメリカ新教育の雄であり、社会教育学者。コロンビア大学名誉教授。インドで開かれたNEF(国際新教育協会)の世界大会からの帰途、訪日され1960(昭和35)年3月5日に来園。まずは小学部大運動場のスタンドに歓迎のために掲げられた国旗掲揚塔の星条旗を見て感激されていました。その後小学6年生たちが卒業記念労作で造った植物園と池を見られ、「これは児童の手で」との説明に「全くすばらしい。小原教育がこのような大自然の中にもよくうかがえる。働きながら学習するということが、私の永年望んでいた教育である。全く徹底している」と驚かれていました。特に池のほとりの動物のお墓には感心され、動物と子供というその美しい心に、実際教育を主張する博士は心温められたようでした。それから美術教室、理科教室、国語教室、社会教室、算数教室、書道教室、英語教室と順次見学され、子供たちの熱心な勉強ぶりや教授法を目の当たりにして「わたくしの国、アメリカにおいてもこのような立派な教育法はあまりないでしょう」と感激。そして「どこの学校でも教師主体制であるのに、玉川では児童主体制である。教育はこうあるべきだ」と強調されました。

松田竹千代文部大臣

第79代文部大臣。玉川学園の理事で同窓会長である森清代議士の勧めと、「小原先生の教育理念が、夢が、如何に実現したかを実際に見聞きしたい」との本人の希望で、1960(昭和35)年5月23日に来園。小原國芳学長とは、牛込の成城学園時代の父兄であったことから縁もありました。この日は礼拝堂で大学生に「理・術一体の大切さを学んでほしい。それを実践している玉川教育を受けられるのは幸せだ」「玉川の諸君の服装が紳士的である。小原先生の人格育成論に敬服する」と話をされました。その後小学部で労作教育の一つである温室での栽培と養魚、花壇作りを見て称賛され、続いて美術教室、音楽教室、理科教室、英語教室を見学。英語教室ではテープレコーダーの応用での英語教育と子供の発音の素晴らしさに、感心され熱心にご覧になられていました。次に中学部の各教室、印刷部を訪れた後、三角点(経塚山)で学園を一眺され、最後に高等部、大学の各教室を見学。帰り際、松田大臣は「小原先生は、この世の中で最も困難なものを育てていて、全くうらやましいです。本当に今日は楽しい有意義な一日でした。全く気持ちのよい学園です」という感想をも述べられました。

参考文献

  • 小原國芳監修『全人』
    第101号(1958年)、第104号(1958年)、第105号(1858年)、第122号(1959年)、第123号(1959年)、第124号(1959年)
  • 小原國芳監修『全人教育』
    第128号(1960年)、第131号(1960年)
  • 『玉川教育-1963年版-』玉川大学出版部 1963年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年