聖山

2020.10.16

聖山は玉川学園町の丘陵の中でも一番高い丘で、玉川学園開校以前は丹沢の尾根の間から富士山も望めた。開学後から塾舎での教育を発展的に解消するまで、小原國芳の胸像のある聖山には、毎朝塾生たちが集まってきて「聖山礼拝」が行われた。國芳も聖山礼拝に参加し、まるく円をつくった学生たちの輪の中に入って、祈り、讃美歌を歌い、こころを穏やかにして一日を迎えていた。

1.聖山

豊かな木々の中を礼拝堂に向かって階段をのぼって行き、さらにその礼拝堂を通り過ぎると聖山にたどり着く。聖山は、1929(昭和4)の玉川学園開校以前には、「丸山」あるいは、丹沢の尾根の間に富士山を望めたことから「富士塚」とも呼ばれていた。開校後、この丘は「聖山」と命名された。1930(昭和5)年に建設された礼拝堂や、創立者小原國芳・信夫妻の住まい(現在の小原記念館)などを擁したこの聖山一帯は、玉川学園の建学の精神を象徴する場所となっている。なお、聖山の中腹には、咸宜園や観音庭園がある。

礼拝堂
創立者小原國芳・信夫妻の住まい
咸宜園
観音庭園の聖観音菩薩像

玉川学園の校歌を作曲した岡本敏明も聖山を歩きながら、そのメロディーが浮かんだと記している。当時の聖山は、木々が密集した狭い空間。その聖山が、学生や生徒たちの労作によって一変。彼らは、倒木の心配のある古木を伐り、草を刈り、芝生を植えて、静かに祈ることができる環境を整備。礼拝堂との間に池も設置された。その結果、遥か丹沢の山々を一望することができ、また塾生たちの早朝礼拝や、大学の演劇部の学生たちによる『真夏の夜の夢』(シェイクスピア作)などの聖山公演が行われ、そして思索にふけることができる憩いの場所となった。

礼拝
体操
演劇公演

やがて木々が生長し、かつてのような眺望は失われた。なんとか、以前のような児童、生徒、学生が集う憩いの場所にしたいという声が高まり、玉川学園創立100周年に向けた事業として、「みんなの夢をみんなの手で」を合言葉にして聖山整備を行うこととなった。その第一弾として、2019(令和元)年の5月、6月に生徒、学生、卒業生、教職員が一緒になって古木の伐採などの整備労作に取り組んだ。

聖山については、『全人』第757号の「玉川の丘めぐり⑱」に次のような記述がある。

聖山という地名については「・・・・高さ三百五十尺の山――吾々仲間では『聖山』と名づけました」と小原國芳が『学園日記』創刊号(1929年6月)で述べている。聖山の命名は創立期の同人たちであった。
聖山の呼称の初出は「・・・・毎朝の行事は、五時に起床、聖山に登つて朝の祈禱と讃美歌を歌ひ・・・・」と、同年四月の記事として『イデア』誌(七四号)に載る。記事を書いたのはおば様こと、國芳の夫人・信(のぶ)。聖山は創立時より祈りの場であった。
一九三〇年一〇月、待望の礼拝堂が完成。翌年八月にパイプオルガンが設置され、祈りの場は急速に整えられた。

礼拝堂献堂式
パイプオルガン

2.玉川学園開校と聖山礼拝

1929(昭和4)年4月8日の玉川学園開校式の翌日から塾生活が開始された。この日から先生方と塾生は、日の出とともに起床し、直ちに聖山に集まって、祈り、体操し、校歌を歌った。その聖山礼拝のことが『學園日記』第1號に次のように記されている。

四月九日(火)晴。今日より先生方及び塾生は日出と共に起床、直ちに聖山に集つて神を讃美し、祈り、體育し、校歌を高唱し、一日の仕事に着く。

朝の聖山で体操

イデア書院発行の『イデア』第74号の「編輯室 のぶ子」には次のように記述されている。

四月八日には開園入學式をいたしました。
 (略)
それから毎朝の行事は、五時に起床、聖山に登つて朝の祈禱と讃美歌を歌ひ、その後は塾生は夫々手分けして仕事をいたします。

4月9日、塾生活が始まる。武蔵野の面影を深く残す聖山での朝の祈り。

3.小原國芳像

1932(昭和7)年8月2日に二科会の彫刻部長であった藤川勇造の手によって小原國芳の胸像が造られ、1934(昭和9)年2月11日に除幕式が執り行われた。胸像は、聖山の東側、松や檜の間に、西の山々に向かって設置された。胸像の台に刻まれている文字は、玉川学園の校歌を作詞した田尾一一の筆によるもの。しかし、この胸像は、戦後になって盗難に遭い、ついにその行方はわからないままとなってしまった。

藤川勇造作の胸像
藤川勇造(左)と小原國芳

その後、1956(昭和31)年に小原國芳の胸像が再建されることになり、美術の教授であった山田貞実と大学美術部の学生たちによる3か月におよぶ大労作により胸像が完成。完成した胸像の除幕式は、約1,700名の児童、生徒、学生、教職員、関係者が集まって、1957(昭和32)年2月28日に聖山で行われた。

胸像の製作
胸像の除幕

やがて聖山の移り変わりの中で、西の山々に向かって設置されていた小原國芳の胸像は、聖山の南を向く場所に移された。これは礼拝堂の方から聖山に上って行ったときに、胸像にすぐに挨拶ができるようにという理由からのようである。さらに前述の玉川学園創立100周年に向けた聖山整備事業により、胸像は再び西の山々に向かう位置に移動された。

4.学内で標高が一番高いのは、聖山それとも経塚山(三角点)?

聖山と経塚山(三角点)について、『全人教育』第293号の加藤博著「玉川余話(1)」に次のような記述がある。

聖山と三角点、この二つの山にのぼれば、武蔵野丘陵の東西南北を俯瞰することができる。東に首都を望み、南は相模湾に通じ、西北には丹沢、秩父の山々が見わたせる。僕は長年この地に住んでいるが、いつ見ても飽かない景色だ。

経塚山(三角点)
経塚山からの眺め

聖山と経塚山の高さについては、『全人』第757号の「玉川の丘めぐり⑱」に次のように記されている。

学園史料室にある明治14年測量の古地図では、聖山の標高は107.19メートル。わが国の近代測量開始時、聖山は測量標の三角点になっていたようだ。平成20年6月の国土地理院発行の地図によれば、聖山は106メートル。三角点のある経塚山は103.5メートル。学内で一番標高が高いのは聖山なのである。

経塚山(三角点)
経塚山から聖山を望む

なお、聖山と玉川学園前駅の高度差は、約23メートルで、7階建てのビルの高さに相当する。

5.聖山の斜面にある横穴墓群

大体育館を見下ろす聖山の南側斜面で、1,400年前に生存していた人々が眠る横穴墓群が5基発掘された。そのことが『全人』第819号に次のように記述されている。

1955、1972年に当時中学部・高等部の、自由研究の生徒と教員で(第1、2次調査)、1992年に教育博物館主体で発掘が行われ(第3次調査)、計5基の横穴墓の存在が明らかになった。1942年の『全人』には、その10年前にも調査をしたとの記述があり、早くから認知されていたらしい。かつて園児児童は「聖山のほらあな」と呼び、かくれんぼなどで出入りしていたと教育博物館 菅野和郎准教授(現教授)は話す。人骨や鉄鏃(てつぞく)、土器、刀子(とうす)などが出土し、被葬者は7世紀頃に生きた地元の有力者と推定される。

なお、出土された遺物は玉川大学教育博物館に保管されている。

6.写真で見る現在の聖山

参考文献

  • 小原國芳監修『全人』No.81 玉川大学出版部 1956年
  • 小原國芳監修『全人』No.92 玉川大学出版部 1957年
  • 小原芳明監修『全人』第819号 玉川大学出版部 2017年
  • 小原芳明監修『全人』第850号 玉川大学出版部 2020年
  • 白栁弘幸「創立以来の祈り場「聖山」」(『全人』第757号「玉川の丘めぐり(18)」 玉川大学出版部 2012年 に所収)
  • 加藤博「玉川余話(1)」(『全人教育』第293号 玉川大学出版部 1974年 に所収)