玉川の生活音楽
歌に始まり歌に終わる一日。校舎から聞こえてくる歌声。児童、生徒、学生たちが愛用している『愛吟集』が歌声の輪を拡げていく。玉川の丘では、教育はもちろん、日々の生活の中に豊かな音楽が息づいている。
1. 玉川学園の音楽
「音楽」によって玉川学園の精神的な基礎づくりを、というのが玉川学園創立者小原國芳の信念であった。また國芳は「音楽の生活化は玉川から」を提唱していた。國芳は「私の音楽教育八十五年」と題する記述の中で、自分自身の音楽教育に対する期待を次のような言葉で示している。
音楽は、すさんだ心をなごやかにし、暗い気持ちを明るくし、悲しみをなぐさめ、疲れをいやし、希望を与えてくれます。この音楽の持つ不思議な力を教育でも十分に利用したいのです。
(略)
音楽こそは、人と人の心を結ぶきずなとなるものと考えます。教育が、人と人との触れ合いの中にあることを考える時、立派な音楽なくしてマコトの教育はあり得ないとさえ考えます。どうぞ、世界に誇り得る教育が、文化が、民族が、出来上がる日のためにも、音楽の楽しみを、今日、今から大事にしていただくよう祈ります。


また、國芳は『音楽教育論』の中で、「人生はリズムです。リズムなしの人生は耐えられないと思います。ここに、音楽の偉大な役目があります」「音楽は絶対に、われわれの生活に融け込んだものでありたいのです」と語っている。
この國芳の思いを受けて、岡本敏明たちが、歌に始まり歌に終わる学園の音楽的環境を作り出していった。また、牛込にあった成城小学校以来、國芳と志を共にしていたオルガンの真篠俊雄、声楽の梁田貞らによっても、玉川の音楽的雰囲気は形成されていった。一方、田尾一一、田中末広、北原白秋らによって多くの歌詞が作られ、学園の生活に合った数多くの歌が生まれた。さらに、小山章三、西崎嘉太郎、迫新一郎、小宮路敏、山下成太郎らへと輪が拡がって、現在の玉川の音楽教育の基礎が築かれた。


玉川の丘で生まれた曲は、朝会や昼食の時など日々の生活の中で、あるいは誕生会、クリスマス会、入学式、卒業式といった行事において歌われた。そのことが、『全人教育』(1970年1月号)に掲載された「玉川学園の音楽教育」の中で次のように述べられている。
今日までの40年間、丘の四季を綴る祝祭日の行事や、遠足、旅行、さては歓送迎会や誕生会等の諸行事と共に、或いは、日の出と共に丘を渡る太鼓の響きで起床し、武相の平野から遠く丹沢、富士、秩父の連山まで見渡せる聖山に集って歌う――それは、子供達が「神さまの歌」がきこえる・・・と言いあらわす――塾生達の朝の合唱、食前食後の集いの歌、誕生会、クリスマスキャロル等をも加えて、一日の幸を感謝する夕べの祈りの合唱までの塾の一日の生活の中に、連綿と受けつがれ、歌い続けられてきた。
玉川の音楽はこのように、歌うことを中心としてこの丘で生まれ、玉川の生活と密着して発展し、玉川生活のリズムや、エネルギーとなっているところに最も大きな特色があろう。
それは、限られた時間と一定の教室で行なわれる音楽の授業としてでもなければ、指導要領によって規定されたものの移行としての音楽の表現でもない――大地と共に、人間と共に生きる形で表現された真の意味での音楽と言うことができよう。
やがて、歌に始まり歌に終わる生活の中で、児童、生徒、学生の合唱は、輪唱、2部合唱、3部合唱、そして混声4部合唱へと上達していった。



また玉川で生まれ、日本中の誰もが知るような一曲へと成長した歌も少なくない。特に知られているのは「どじょっこふなっこ」であろう。「春になれば~」で始まる、誰もが子供の頃に口ずさんだことのあるこの歌は、実は玉川学園で生まれた。東北地方での公演旅行の時である。
また、輪唱曲としてよく歌われる「蛙の合唱」も玉川の丘から誕生した。1930(昭和5)年に来園したスイスの教育家ヴェルナー・チンメルマンから教わった曲に、岡本敏明が日本の子供たちのために作詞をしたものである。 このように玉川学園で生まれ、日本の誰もが口ずさむようになった歌は少なくない。こうした歌が生まれる土壌が玉川学園にはできている。
2. 創立以来、歌い続けられている「玉川学園校歌」
「玉川学園校歌」は、岡本敏明が、1929(昭和4)年4月、開校準備が進められている松林の中で、田尾一一が手がけた歌詞に数時間でメロディをつけたものである。あたかもこの歌に初めからこの曲がついていたかのように。
岡本は『全人教育』(1966年1月号)に寄稿した「感動の音楽 生活の音楽 ―玉川の丘にとよもす夢の合唱―」に次のように記述している。
玉川では、毎朝、朝会に校歌が歌われる。小学部、中学部、高等部と、それぞれ朝会のはじまる時間のずれがあるから、まず、小学部の丘からこどもたちの元気な校歌ではじまって、中学部の丘へ、高等部の丘へとつぎつぎに歌いつがれて行く。十年一日の如しのたとえがあるが、玉川では四十年一日の如く、雨の日も風の日も、毎朝、校歌が歌われている。これは世界に例のないところであろう。
それが、強いられた形で歌わされるのであったら、決して好ましいとはいえないが、玉川ではきわめて自然に歌われ、その都度、感動をもって歌われている。しかも、卒業生の集りなどでも、最後に校歌を歌わないとおさまりがつかないというぐあいである。

校歌は、まさに玉川の丘で理想の教育を始めようとする小原國芳の、「勉強すること、働くこと、信ずること」という新学園の基本構想、新しい学校への思いが表された一曲となった。一番の「空高く……」では、聖山に立ち相模平野を見下ろした時の大きく広がる空と景観を表現し、大自然に抱かれた玉川の丘に集う私たちは、自分たちの学舎をどこまでも魂の道場として守り続けたい、という決意が歌い込まれている。また二番の「星あおき……」では、星もまだ空に残る朝(広い意味での午前中)のうちに勉強や読書をし、風わたる日中には鋤で大地を切り拓く、つまり知行合一を実行してこそ真の人間になっていくのだ、という人間教育の真髄を歌いあげている。そして三番の「神います……」では天を仰げばおられる神は私たちの遠い祖先であり、私たちが一生懸命に取り組んでいる姿をきっと愛でたたえて下さっているにちがいない、という神に対する思いが歌われている。

このように校歌は、学校の教育理念を色濃く反映している。校歌に込められた思いは、いつの時代においても、玉川教育の実践の中に色褪せることなく息づいている。


3. 多くの人たちに愛用されている『愛吟集』

1932(昭和7)年に塾生たちの選曲により「塾生愛吟集」という名称で「愛吟集」が誕生した。以後何度となく再版され、朝会、食堂での会食、講堂での集会、礼拝、誕生会など、歌う機会の多い玉川学園の「生活音楽」を支えてきたのが「愛吟集」である。小学生から大学生までが使え、愛用されている歌集は、世界でも珍しい。「愛吟集」には、玉川の生活や伝統から生れた曲、それぞれの時代に国内外で歌われた名曲などが掲載されている。
1955年4月に刊行された愛吟集の「序文」に、小原國芳は次のように記している。
歌は人生に潤いと励ましを与えてくれます。人生に歌がなかったら、どんなにか、それは殺風景なものでありましょう。私共の玉川学園で青少年達が朝に夕に、祝祭日、旅行、さては歓迎会や送別会などに、年齢の別なく、いつでも歌えるものをと思いまして廿年来心がけて編纂しましたものがこの歌曲集です。この歌曲集が類書に見られない生活に即した歌の多いのはこの理由からであります。

また、同じ愛吟集の「編者の言葉」で岡本敏明は、どのような歌を選曲したかを記述している。その理由の最初に記述されているのが、「豊富に一年中の生活に関連をもつものをえらんだこと」であった。


4. 合唱祭、音楽祭
1933(昭和8)年11月19日、第7回競演合唱祭に玉川学園は混声合唱団として初参加。結果は、混声部門で第1位であった。当時の競演合唱祭(現・NHK全国学校音楽コンクール)は東京市の主催で、文部省の後援、協賛が国民音楽協会・東京音楽協会などで、合唱団の日本における唯一の登龍門であった。玉川学園混声合唱団は、翌年の第8回も第9回も混声部門で第1位となったが、総合では第7回が第6位、第8回が第4位、第9回が第2位と優勝には届かなかった。第10回は10回を記念して総合優勝には文部大臣賞杯が用意された。そしてついにその年、玉川学園混声合唱団は総合優勝を遂げ、その文部大臣杯を手にすることとなった。翌年、翌々年にも総合優勝した玉川学園混声合唱団は、前例にならってその後の競演合唱祭には出演を勇退した。

このように生活の中における大小様々な音楽を通じて、玉川の児童や生徒たちは、知らず知らずのうちに合唱に対する感覚を身につけていった。当時は、特に中学生の混声合唱団はとても珍しく、その歌唱力に高い評価を得ていた。前述のとおり1936(昭和11)年から1938(昭和13)年の「競演合唱祭」において、3年連続で総合第1位を受賞したことは、それを物語っている。

音楽祭は毎年開催され、また周年記念式典も合唱や演奏が中心のものであった。創立80周年記念の「玉川学園の集い」も「新たな夢、新たな未来へ」をテーマに、未来に向けての力強い約束を歌声に乗せて披露した。今から30年以上前に小学部生が作詞・作曲した「丘のコスモス」も小学1年生から4年生までの合唱曲として歌われた。

5. 生活の歌を自分たちの手で創作
音楽を聴いたり、歌ったりするだけではなく、児童や生徒が生活の歌を自分たちで作り上げることはかなり以前から行われていた。迫新一郎著「音楽 ― 音楽の生活化を主題とした経営の実際 ―」につぎのような記述がある。
児童自身の生活を自分等の歌声でよりよいものにしていこうとする行為が、仲間で歌う曲を自分達の手で作ろうという創作へのきざしが芽生えてくる。
紙屑ひろいを続けながら、仲間の間から自然に歌いあげられた「紙屑ひろいの歌」、卒業の記念労作の合言葉「みんなの夢をみんなの手で」が六年生共同作詞作曲で歌い出され、自由研究の作曲研究グループで生活の歌として発表された作品が、日常生活の中で愛唱歌として歌いつがれている。「雲」「さよならの歌」「やまびこ」等。
また学級の団結を計ろうと学級の歌の共同創作。
卒業式に六年生が後輩に自分等の生活の高められた理想の姿を歌に托して残そうと意図され「卒業に残す歌」として創作された
〇みんなの夢をみんなの手で
〇みよ大空に夢がある
〇青空の中に
〇夢の学園
〇見あげてごらん
以上五曲はその年の代表作品として卒業式で発表され、集いの歌として印象強く歌い継がれている。
こうしてこれまで、数々の曲が児童、生徒たちの手で作られた。創立80周年記念の「玉川学園の集い」においても、そのクライマックスは、児童、生徒、学生たちが80周年を記念して作ったオリジナル曲の発表であった。自分たちの手で80周年を記念した曲を作りたいと、小学生から大学生まで約80人が集まりプロジェクトを形成。そしてそれぞれの世代で夢をテーマにした曲を作り上げた。そしてその中の一曲として、小学4年生桂組が作詞・作 曲した「小さくて大きな一歩」が選ばれ、式典のクライマックスで披露され、会場の人たちも含め全員での大合唱となった。


6. 「第九」の大合唱
「玉川学園出演」と正式に記録された初の「第九」合唱は、1936(昭和11)年5月28日、日比谷公会堂で開催された「オリンピック蹴球選手送別音楽会」においてのこと。大日本合唱連盟の一員として、玉川学園が成城学園合唱団とともにステージに立った。それ以降、毎年のように「第九」は歌われ、現在は大学1年生全員がパシフィコ横浜(2011年までは普門館)のステージで「第九」の大合唱を披露している。これだけの大人数での大合唱が行えるのは、生活音楽による基盤があったからであろう。


参考
玉川の丘でよく歌われている曲(「愛吟集」より一部を掲載)
曲名 | 作詞者 | 作曲者 |
玉川学園校歌 | 田尾一一 | 岡本敏明 |
学生歌 | 岡本敏明 | ドイツ民謡 |
玉川学園体操歌 | 田尾一一 | 岡本敏明 |
玉川学園運動会歌 | 北原白秋 | 岡本敏明 |
どじょっこふなっこ | 東北地方秋田俚謡 | 岡本敏明 |
蛙の合唱 | 岡本敏明 | ドイツ民謡 |
村の道ぶしん | 葛原しげる | 梁田貞 |
朝の歌 | 岡本敏明 | 岡本敏明 |
沖の小島 | 田中末広 | 梁田貞 |
城ケ島の雨 | 北原白秋 | 梁田貞 |
月 | 田中末広 | 梁田貞 |
この道 | 北原白秋 | 山田耕筰 |
浜辺の歌 | 林古渓 | 成田為三 |
小さい花 | 岡田陽 | 柳沢昭 |
ゆうやけこやけ | 小山章三 | 小山章三 |
だるまさん | 小山章三 | 小山章三 |
われら愛す | 芳賀秀太郎 | 西崎嘉太郎 |
おめでとうたんじょうび | 岡田陽 | 西崎嘉太郎 |
あがり目さがり目 | 迫新一郎 | 迫新一郎 |
歩け若人 | 迫新一郎 | 小宮路敏 |
歩いてゆこう | きく よしひろ | 小宮路敏 |
公園のベンチ | 福井水明 | 小宮路敏 |
毛虫が三匹 | 栗原道夫 | 小宮路敏 |
みんなで歌えば | 西崎嘉太郎 | デンマーク民謡 |
若人の歌 | 小山章三 | 小山章三 |
歓迎の歌 | 岡本敏明 | アメリカ唱歌 |
わが祖国 | 古関吉雄 | ドイツ民謡 |
もしもコックさんだったなら | 山本瓔子 | 小宮路敏 |
丘のコスモス | 山村俊介 | 山村俊介 |
おはよう | 小山章三 | 小山章三 |
うるわし夏の野 | 西崎嘉太郎 | 西崎嘉太郎 |
別離の歌 | 岡本敏明 | ドイツ民謡 |
秋の歌 | 岡本敏明 | ドイツ民謡 |
夜が明けた | 岡本敏明 | フランス民謡 |








関連サイト
参考文献
- 小原國芳「私の音楽教育八十五年」
(迫新市郎著『私の音楽教育八十五年 - 創造性を高める -』 玉川大学出版部 1971年 に所収) - 小原國芳著『学校劇論』 玉川大学出版部 1963年
- 小原國芳「音楽教育論」
(小原國芳監修『全人教育』第147号 玉川大学出版部 1961年 に所収) - 岡本敏明「感動の音楽 生活の音楽」
(小原國芳監修『全人教育』第197号 玉川大学出版部 1966年 に所収) - 迫新一郎「音楽 ― 音楽の生活化を主題とした経営の実際 ―」
(玉川学園小学部編『小学教育 ― 玉川学園 ―』 玉川大学出版部 1965年 に所収) - 小宮路敏「一人一人を伸ばす音楽教育 音楽の生活化を主題とした目標」
(玉川学園編『玉川学園小学部 全人教育の実践』 玉川大学出版部 1979年 に所収) - 高浪晋一・高森義文「生活の中にある音楽教育」
(玉川学園中学部編『中学教育 ― 玉川学園 ―』 玉川大学出版部 1965年 に所収) - 小橋稔、迫新一郎「玉川学園の音楽教育」
(小原國芳監修『全人教育』第245号 玉川大学出版部 1970年 に所収) - 迫新一郎、木村仁、中塚智之「玉川の音楽」
(小原國芳監修『全人教育』第289号 玉川大学出版部 1973年 に所収) - 千葉佑「全校合唱の実践」
(玉川学園編『玉川学園中学部 全人教育の実践』 玉川大学出版部 1979年 に所収) - 高浪晋一「音楽 ― 合唱する喜びを通して音楽性を磨くために ―」
(玉川学園編『玉川学園高等部 全人教育の実践』 玉川大学出版部 1980年 に所収) - 迫新一郎、朝日育也、高森義文、石井歓、宮城勝久「音楽教育」
(小原哲郎監修『全人教育』第361号 玉川大学出版部 1979年 に所収) - 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
- 学校法人玉川学園編『玉川学園創立80周年記念誌』 玉川学園 2010年