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玉川豆知識 No.221

玉川辞典③(ナ行~ワ行)

辞典という形式で、玉川学園の歴史を振り返ります。

ナ~ノ

奈良池

玉川学園キャンパスは、東京都および神奈川県を経て東京湾に注ぐ鶴見川の水源地のひとつとなっており、玉川池と奈良池という二つの池を有している。奈良池は東山の北側、K-12東山校舎(旧中学部校舎)の裏手にあり、江戸時代から続く農業用の灌漑池。鶴見川水系恩田川の支流である準用河川・奈良川の水源で、行政区画は横浜市青葉区に属する。この地域の地名から、学内で「奈良池」と呼ばれるようになったのは1960年代のこと。学外では古くから「本山池」の名が用いられていた。本学の用地として取得されたのは1976(昭和51)年。かつては絶滅危惧種のゼニタナゴの生息が確認されていたが、残念ながら中国産のタイリクバラタナゴや北米産のブルーギルにより、絶滅してしまった。現在はブルーギルが多くを占める。周囲は土橋谷戸という地名で、里山の原風景が残る。奈良池で泳いだ思い出のある卒業生も多い。
奈良池周辺には竹林があり、小学部生が七夕用の竹を切り出したり、中学部生が筍の収穫をしたりする姿が見られた。

成田為三

成田為三(なりたためぞう)は、1914(大正3)年、東京音楽学校甲種師範科に入学。山田耕筰に師事し、在学中の1916(大正5)年に名曲「浜辺の歌」を作曲。成田24歳の時であった。作詞は林古渓。「浜辺の歌」は、宣伝もなしに長い間、毎日のように日本中に流れ、さらに世界中の人に愛される不朽のメロディーとなっていく。1918(大正7)年、当時唯一の音楽出版社であったセオノ楽譜から独唱歌として「浜辺の歌」が伴奏つきで刊行された。伴奏つきというのも珍しかった時代である。
1919(大正8)年、成田は佐賀師範学校教諭の職を辞任して東京に戻り、1921(大正10)年まで赤坂小学校で音楽を教えるとともに、童話雑誌『赤い鳥』を刊行した小説家鈴木三重吉のすすめもあって作曲の仕事に没頭。そして成田は『赤い鳥』の童謡選者となり、自身でも数々の童謡を発表した。成田作曲、西條八十作詞の「かなりや」(「歌を忘れたカナリヤ」)が『赤い鳥』誌上で発表されると、新鮮にしてその甘美なメロディーが日本中の青年たちや子供たちの心を掴み、愛唱歌となっていった。
1929(昭和4)年に『対位法初歩』(先進堂)を刊行して以降、音楽理論に関する『和声学』(六星館)、『楽式』(音楽世界社)、『楽器編成法』(音楽世界社)などを次々と刊行。1931(昭和6)年、小松耕輔と共同編集して『新日本小学唱歌』を宝文館より毎月刊行。1941(昭和16)年には国立音楽学校の教授となる。
1929(昭和4)年に国立音楽学校を卒業して玉川学園で教えることになった岡本敏明は、学生時代からの作曲の勉強を継続するために、よき師を求めていた。そして成田の作風にひかれ、岡本は紹介状もなしに成田の自宅を訪問。そして、成田が亡くなるまで、二人の師弟関係は続いた。
1945(昭和20)年4月、空襲により成田の自宅は焼失。家財、作品の一切を失う。都会生活に希望を失った成田は郷里の秋田県米内沢の兄の家に疎開。やがて終戦となり、10月27日に玉川学園の専任教授として迎えられて上京。玉川学園の女子寄宿舎の一室に落ち着く。翌日は、小原國芳の招待で小原家を訪問。しかし、翌10月29日の朝、脳溢血で倒れ亡くなる。享年53歳。葬儀は玉川学園の礼拝堂で行われ、玉川学園と国立音楽学校の生徒たちによって「浜辺の歌」が先生の霊前に捧げられた。成田が玉川学園の専任教員であったのは3日間であった。

西田幾太郎
西田来園時、西田(中央)と國芳(右)

西田幾多郎(にしだきたろう)は日本を代表する哲学者であり、西洋の哲学と日本の思想を融合させ独自の哲学を展開した。小原國芳は、西田や波多野精一、小西重直などそうそうたる顔ぶれが揃っていた黄金時代といわれていた当時の京都帝国大学文科大学哲学科に1915(大正4)年に入学。そこで國芳は西田と出会い、1918(大正7)年までの3年間(当時帝国大学の就業年限は3年)、彼らの指導のもと、教育学の研究に打ち込んだ。西田は、國芳のその後の教育観や宗教観とその展望に大きな影響を与えた。
西田の著書『善の研究』は日本の本格的な哲学書であり、後年も多くの人に読み続けられている。國芳も広島高等師範学校時代に読んだ『善の研究』に鮮烈な印象を受け、「日本の哲学界が永遠に記念すべき名著」と語っている。その後テキストとして、成城学園、玉川学園で長年使われた。
西田と國芳との交流は、國芳の京都帝国大学卒業後も続き、玉川学園が創立して3年後の1932(昭和7)年6月に開催された第4回労作教育研究会に、西田は特別講師として来園。またその後も玉川学園との関係は深く、1942(昭和17)年、國芳のもと玉川学園キャンパス内に興亜工業大学(現在の千葉工業大学)が設立される際、文部省(現在の文部科学省)に提出した設置趣意書の建学の精神および教育方針の作成に、西田は政治評論家の徳富蘇峰、作家の武者小路実篤、キリスト教伝道者の本間俊平、磁性物理学の世界的権威であり東北帝国大学総長の本多光太郎、京都帝国大学前総長の小西重直らとともに参加した。

野口英世

黄熱病の研究と、その撲滅に力を注いだ野口英世(のぐちひでよ)。ペンシルベニア大学の医学部を経て、ロックフェラー医学研究所の研究員となり、細菌学者として黄熱病や梅毒などの研究を進め、ノーベル賞において生理学・医学の分野で3度候補に挙がった。中国のニーチャン、アメリカのフィラデルフィア、デンマークのコペンハーゲン、ドイツのベルリン、エクアドル共和国のグアヤキル、さらにはメキシコや南米のペルー、ブラジルなど世界各地を回り研究を続けてきた。そして最後に訪れた英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラにて黄熱病の研究中、自らも黄熱病にかかり、1928(昭和3)年5月21日に51歳で亡くなった。
1960(昭和35)年、小原國芳はメキシコで行われた第3回国際大学協会総会に、日本私立大学の代表として出席。会議後、教育事情視察のためメキシコ各地を歴訪した國芳は、ユカタン半島のメリダ市にあるメリダ大学(現在のユカタン州立自治大学)医学部付属のオーラン病院に立ち寄り、同所で医学の研究を行った野口英世の研究室を見学。その時、野口から直接指導を受けた同大教授たちから「博士の遺徳を永遠に顕彰したい。そのために野口英世博士の記念像がほしい」という希望を聞く。そして國芳は銅像を贈呈することを約束。
帰国後、國芳からその話を聞いた学生、生徒たちは小遣いやアルバイト代を集めた。そして礼拝献金などを加えることで約17万円の資金ができた。野口記念会の協力もあり、日本芸術院会員の吉田三郎に制作を依頼し、野口英世のブロンズ立像が完成。そして、駐日メキシコ大使を玉川の丘に招き、全学園あげての銅像贈呈式を挙行した。その後、日本の外務省の協力を得て、銅像は無事にメリダ市に運ばれた。
メキシコのユカタン州知事より、1961(昭和36)年6月25日の野口英世像除幕式に小原國芳以下、教職員や学生たちを招待したい、さらには学生たちによる日本文化の紹介を行ってほしい旨、連絡が入る。早速、玉川学園メキシコ親善使節団(団長:小原國芳、教職員7人、研究生5人、大学生9人、高等部生9人、中学部生5人、小学部生4人の計40人からなる。副団長はメキシコ公演の総監督でもあった岡田陽)が結成され、6月21日から7月17日まで26日間の親善旅行が実施された。そして、使節団は、野口英世像の除幕式のセレモニーに参加。除幕式の前には、メリダ市の歓迎式や市長主催のレセプションも開催され、除幕式終了後には、学生による日本芸能公演「日本の日」が企画され、一行は日本の歌や演劇、伝統舞踊などを披露した。

駐日メキシコ大使に銅像を贈呈
メキシコでの野口英世像除幕式での合唱

ハ~ホ

パイプオルガン

礼拝堂に備えられたパイプオルガンは1931(昭和6)年8月7日に設置された。当時、パイプオルガンは、上野の音楽学校(現在の東京芸術大学)や三越など日本にまだ4台しかなかった。小原國芳は牛込の成城時代の1925(大正14)年頃から、パイプオルガンを教育の場に用いることを夢見ていた。そして1930(昭和5)年の欧米教育視察の際、アメリカの教会でパイプオルガンの厳かな音を聴き、「宗教教育」にパイプオルガンは欠かせないという強い信念を持った。國芳は、オルガン製作世界一の会社であるシカゴのキンボール社に行き、直接交渉の末、パイプオルガンを購入。その時の交渉の様子が、國芳著『教育一路』につぎのように記述されている。

「なんとか、十年年賦で売らないか」
「そんな前例はない」と大笑い。
「飛行機は前例がなくても、飛んだじゃないか。アメリカでも前例前例というのか」
「わかった。せめて三分の一は前金で払ってくれ。あとは三年の分割払いでよろしい。だが正金銀行の重役の保証がほしい」
「承知した。こちらにも一つ頼みがある。東洋におけるエージェンシーを私にくれないか」
「日本では最初の申し込みだからよかろう」

このパイプオルガンは最新型の一級品であったと言われている。パイプオルガンの大きさについては、『玉川学園三十年史抄』に、「三越のと同じ、三越のは劇場用。玉川のは礼拝用、学校用」と記されている。

購入したパイプオルガンは、国際汽船により1931(昭和6)年7月25日に横浜港に着き、7月27日に玉川の丘に運ばれた。がっしりとした木箱に詰められたパイプオルガンを開梱し、5センチ程度のものから1メートルもあるパイプや、大小さまざまのチャイムを組み立てた。この組み立ておよび調律作業は、アメリカキンボール社から派遣されて来た技師と玉川の中学生4人が片言の英語でやり取りしながら酷暑の中で行われた。そして、夏休みを費やして、ついに完成に至った。
しかしながら初演奏から一週間経たない9月18日の地震によって、天井の漆喰壁が崩れ落ち、パイプオルガンは大きな被害を受けた。この破損に際して、設置のときに組み立て作業を担当した中学生たちが、15日間にわたり修復作業を行った。その後もアクションの皮やフェルトが虫の被害にあったり、気候の差で木部に狂いが生じたこともあったが、代々学生、生徒たちの手によって修理、調整、調律が続けられてきた。
このパイプオルガンは、アメリカのシカゴ市のW・W・キンボール社製で、製造番号は7097。ストップ12、パイプ数794本、チャイム20本、二段鍵盤、フルペタル付、Cスケールの礼拝用オルガンであった。アクションは当時最先端の構造である電空式で、パイプ全体がスエルボックスに入り、飾りパイプはついていなかった。現在、演奏台は取り替えられ、もとの演奏台は教育博物館に保管されている。

箱根自然観察林/須雲塾

玉川学園が箱根実習林を取得したのは、1962(昭和37)年10月17日。面積は772,873平方メートル。神奈川県の西部箱根町の南東側古期外輪山内壁に位置し、標高は下部が須雲川流域の410mで、最後部が弁天山山頂の990m。住所は神奈川県足柄下郡箱根町畑宿。この500mの高低差を生かした実習林の植生については、暖帯から温帯にまたがっていて、それを水平に直してみれば、南は九州から北は岩手までのほとんど本州全体を含んだ地域となるので、植物の種類の多いことは随一である。
箱根旧街道を上って行き、箱根寄木細工の発祥の地である畑宿のバス停付近から石畳の街道に入り、すぐに左に折れて須雲川沿いに進むと、数分で箱根新道の橋下に出る。車が入れるのはそこまでである。そして数段の階段を上ると、畑宿清流マス釣り場が見える。マス釣り場は須雲川を利用して作られており、大自然そのままの清流釣りを楽しむことができる。また、バーベキューを行う設備も整っている。このマス釣り場を横切って、さらに上っていくと須雲塾の建物が見えてくる。
1978(昭和53)年にカナディアン・シーダーハウスの研修宿泊施設として誕生した須雲塾は、本部棟、男子棟、女子棟の3棟で構成されている。本部棟には大浴場が設けられている。農学部では、ここに宿泊しながら森林の維持管理、清流でのワサビ栽培等の学生実習あるいは卒業研究等の試験研究を行っていた。また須雲塾は、幼稚部のお泊り合宿、小学部の林間学校、中学部の労作合宿、大学工学部の作業実習、女子短期大学の幼稚部園児のための遊具製作、継続学習センターの公開講座、クラブの合宿、教職員の研修、卒業生の同窓会等で利用されていた。しかし、1991(平成3)年の台風による大雨で土砂災害が発生し、それ以降、須雲塾は使用休止となっている。農学部がワサビ栽培を行っていたワサビ田も、2002(平成14)年の台風で流失した。そのため1983(昭和58)年より続いていたワサビ栽培も中止となった。使用休止中の須雲塾は、現在、植物や動物などの観察および生態系調査、植物・樹木の同定の実習といった農学部の活動に限定して利用されている。

波多野精一

波多野精一(はたのせいいち/1877年~1950年)は、東京専門学校(現・早稲田大学)で講師として「西洋哲学史」を指導していた時期に『西洋哲学史要』を執筆。この本は、以後半世紀以上にわたって、日本における西洋哲学の重要なテキストとなった。この『西洋哲学史要』をまとめたのが波多野24歳の時であった。
その後、1917(大正6)年に京都帝国大学の文学部宗教学講座の担当に。この京都で、波多野と小原國芳は師弟として出会うのである。國芳の卒業論文の審査委員の一人となったのが波多野だった。ちなみにこの時、國芳は「宗教による教育の救済」という題目で1,500枚に及ぶ卒業論文を執筆。この卒業論文は後に加筆・修正されて『教育の根本問題としての宗教』というタイトルのもと玉川大学出版部より刊行された。
波多野は、1935(昭和10)年に『宗教哲学』を上梓。執筆に7年を要した力作であった。そしてこれは後に刊行する『宗教哲学序論』『時と永遠』と併せて三部作と呼ばれ、波多野の代表作となる。1937(昭和12)年には京都帝国大学を定年で退官し、名誉教授の称号を授与された。1945(昭和20)年には岩手県千厩へと疎開する。この年、波多野は68歳。そんな波多野の下へ一通の手紙が届く。それは國芳からの「玉川大学で教鞭を執ってほしい」という依頼であった。その依頼は一通ではなく矢のように波多野の下へと送られ、その熱意にほだされた波多野は再度教壇に立つことを決意する。1947(昭和22)年のことであった。
玉川大学で波多野は「西洋哲学史」「宗教哲学」「ギリシャ語」などを担当した。ただ、残念ながら波多野の玉川の丘での日々は長くは続かなかった。玉川大学に赴任した直後の1948(昭和23)年、波多野は直腸潰瘍の手術で2か月ほど入院。その後も体調が優れず、自宅で療養することが多くなった。そうした中、1949(昭和24)年には玉川大学の第二代学長に就任する。これも國芳のたっての願いだった。
そして翌年の1950(昭和25)年1月17日、惜しまれつつ72歳で逝去。直腸癌であった。波多野の葬儀は玉川学園の学園葬として執り行われた。死後も波多野と玉川学園の結びつきは強く、私物などが遺族から玉川学園に寄贈された。特に膨大な量の書物は波多野文庫として、玉川大学図書館内に設置されている。現在、玉川学園の丘には波多野の像が飾られている。これは波多野の死から10年後、学生たちが作り上げたものである。

八大教育主張 「全人教育」の誕生

八大教育主張とは、1921(大正10)年8月1日から8日まで、東京高等師範学校(現・筑波大学)の講堂で、大日本学術協会が主催して開かれた講演会を指す。正式には「八大教育主張講演会」という。講演は連日、18時から23時ごろまで行われ、講演2時間半、質問、討議の時間で構成され、その他、新宿御苑や文部省などの見学も実施された。
講演を行ったのは小原國芳をはじめとした教育改革に深い関心を持つ人たちだった。その多くは、教育現場の陣頭に立ち、理論上・実践上の苦闘を経験した教員や師範学校教員であった。8人のうち、4人が30代、3人が40代であったことからもわかるように、壇上に立ったのはいわゆる「第一線で活躍する新人指導者」であり、教育学者は一人もいなかった。八大教育主張は、教育界における大正デモクラシーが花開いた瞬間であった。
この講演会では、1.自学主義教育の根底(樋口長市)、2.自動主義の教育(河野清丸)、3.自由教育の真髄(手塚岸衛)、4.衝動満足と創造教育(千葉命吉)、5.真実の創造教育(稲毛詛風)、6.動的教育の要点(及川平治)、7.文芸教育論(片上伸)、8.全人教育論(小原國芳)といった、8つの教育主張が展開された。
明治時代までの教育は、教師が中心となり、児童に学問を注入し、模倣させることをよしとしてきた。しかし、8人の論者は各自持論を展開、既存の教育に疑問を投げかけた。それぞれの主張には、当時の欧米の新教育思想や教授法の影響が見られるが、従来の教育学者のように翻訳紹介にとどまらず、自分の実践をふまえて自説を打ち出そうという意気込みが感じられた。また、8人の主張には、自由や創造性を尊び、成長の能力を重んじようとする、児童中心主義傾向を持つ点に共通性があった。
小原國芳の「全人教育」という言葉が聴衆の前に提示されたのは、このときが初めてであったが、その後、初等・中等教育の現場で、教育理念を語る言葉として広く流布するようになった。
この講演会には、夏の暑い盛りにもかかわらず、北は北海道から南は沖縄、さらには台湾や朝鮮、満州、樺太などの各地からも参加者が集まった。講演会当日は主催者側の予想を超えて、会場定員2,000人のところ5,500人にものぼる参加申込者が殺到するほどの盛況ぶりであった。

東久邇宮殿下

1939(昭和14)年、学校と職場を結んだ産学協同の新しい試みの新工業教育が玉川学園専門部の中で実践され、川崎にある日本火工株式会社の工場で実習が行われていた。その実習での生徒のまじめな作業態度が、工場を視察された東久邇宮殿下の目にとまり、それが玉川学園への視察のきっかけとなる。1940(昭和15)年10月24日、東久邇宮殿下が視察のため来園。この来園の様子は『東久邇宮様をお迎へして』としてまとめられ、1941(昭和16)年11月に玉川学園より発行されている。
東久邇宮殿下の玉川学園への視察は、皇族として初めての本学への来園となった。その東久邇宮殿下は、終戦直後の1945(昭和20)8月17日に、敗戦の責任を取って辞職した鈴木貫太郎の後を引き継いで内閣総理大臣に就任。皇族としては初めてのことであった。しかし、長くは続かず、その内閣は組閣から54日後に総辞職。そして東久邇宮殿下は、1990(平成2)年に102歳で亡くなられた。
小原國芳のもと1942(昭和17)年に設立された興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の創設に、東久邇宮殿下は尽力されていた。フランス留学の経験のある東久邇宮殿下は、欧米に遠く及ばないアジア諸国の科学技術力に日頃から危機感を持っており、海軍元帥の永野修身や哲学者の西田幾多郎らと共にこの興亜工業大学の創設に尽力されたのであった。

東山

K-12東山校舎(旧中学年校舎)の南側にある東山は、標高が81.5m。標高107.19mの聖山、標高103.6mの経塚山(三角点)とともに玉川三山(丘)と呼ばれている。ふもとに奈良池を擁している。
K-12東山校舎の雑木林の中に、東山の山頂に向かう道がある。山頂には防火水槽があるのみで、他には何もない。防火水槽は、約25年前に小規模の火災が発生したことから設置されている。
東山の南側の斜面には6~8年生の畑がある。学内で畜産を行っていた1990(平成2)年頃までは、農学部の学内牧場で使用する飼料の牧草も育てていた。
東山や中学年校舎(現在のK-12東山校舎)、記念体育館などの一帯の整備が完了したのは1983(昭和58)年。学内の建築物や地形を記す「玉川学園構内現況図」1981(昭和56)年版にはじめて「東山」の名称が載った。

百科辞典

小原國芳は、自学を徹底的に行うためには、体系的な百科辞典が必要であると考えていた。しかし昭和初期には、百科辞典の刊行は、必ず赤字を出して出版社の破産につながるとまで言われるほど危険な事業とされていた。だが國芳は、1932(昭和7)年、日本で初めて子供向けの百科辞典である『児童百科大辞典』(全30巻、1937年完結)を刊行した。
この『児童百科大辞典』刊行のきっかけとなったのには、國芳の恩師ともいえる澤柳政太郎の存在があった。澤柳が海外視察の土産品として國芳に贈ったのが、イギリス人アーサー・ミーが編纂したアメリカの児童百科辞典『The Book of Knowledge』(全20巻)だった。そのとき澤柳はこの辞典と共に「自学自律の教育には絶対に児童のための百科全書が生まれねばならぬ。お前ひとつやってみないか」というメッセージを國芳に残している。そしてこの一言から、子供のための百科辞典の編纂事業がスタートすることとなった。
しかし児童向けの百科辞典は、一朝一夕にできるものではなかった。何より欧米では発刊の事例があるものの、日本ではまだ誰も手がけておらず、大人向けの百科辞典の発刊事例がいくつかある程度だった。このような前例のない中での作業が求められたことで、編集作業は困難を極めた。そして國芳も大人向けの百科辞典の子供版ではなく、真に子供のための百科辞典の作成を目指そうとしたことで、編集に多くの時間が割かれることになる。
その困難を乗り越えて、以後、玉川大学出版部は『学習大辞典』(全32巻)、『玉川児童百科大辞典』(全30巻)、『玉川こども百科』(全100巻)、『玉川百科大辞典』(全31巻)、『玉川児童百科大辞典』(全21巻)、『玉川新百科』(全10巻)、『玉川こども・きょういく百科』(全31巻)、『玉川百科 こども博物誌』(全12巻)を次々と出版した。
なお、『玉川こども百科』の「春の植物」、「夏の植物」、「秋冬の植物」の3冊が、1959(昭和34)年5月5日の産経新聞において「新機軸の植物図鑑、年少者にも理解できる解説」と評価され、第6回産経児童出版文化賞を受賞。児童向けの百科辞典として、唯一無二の存在となる。
日本で出版されている百科辞典の多くは、「辞典」ではなく「事典」という文字が使われているが、玉川大学出版部刊行の百科辞典は、「事典」ではなく「辞典」を使用している。「事典」は、事柄を解説したもので「ことてん」とも呼ばれている。一方、「辞典」は、ことばの意味・発音・表記・語源・文法などを解説したもので「ことばてん」とも呼ばれている。「辞典」の「辞」には「ことば」という意味がある。

富士高等学校
第1回卒業式

玉川学園富士高等学校は、1964(昭和39)年に開設された通信制普通科高校である。1973(昭和48)年に休校となるまで9年間にわたって、玉川学園内と静岡県内数か所の分教室で教育が行われた。
富士高等学校は、1962年に矢崎総業株式会社(当時、矢崎電線工業株式会社ほか2社)から本学に、同社の社員教育に協力してほしいという要請があったことが設立の契機となった。当初は会社からの委託学生を受け入れることで話し合いが進められていたが、その過程で、玉川学園が矢崎社員の資質向上に全面的に協力をすること、その一環として、通信制の高校を設置し、同社の社員(最終学歴が中学卒業の者)に高校課程の教育を行うという発想が生まれた。
そして設立された富士高等学校の第一回入学式は1964(昭和39)年4月に本学礼拝堂で行われ、入学者は487人を数えた。富士高等学校は基本的には通信制の普通科という形態をとっていたが、教育課程のなかで工場従業者教育の意義を持たせるように配慮された。また、受講生が矢崎の工場がある静岡県下4都市(湖西市・天竜市・島田市・沼津市)に分かれていることから、玉川の教職員が月2回の割合で、出張スクーリング授業を行った。授業科目は英語、数学、国語、社会、音楽の5科目であり、教員は本学の高等部の教諭を中心に、小学部、大学、大学通信教育部などから講師が派遣され、隔週のスクーリングとレポート出題が行われた。授業が行われたのは工場が休みになる土曜日と日曜日。師弟同行で遠足やキャンプ、運動会、音楽会、修学旅行といった行事や合唱の指導も行われた。
1967(昭和42)年、4年生まで揃った完成年度には生徒数は660人、専任教職員も15人を数えるまでになった。しかし、1970(昭和45)年に入ると、社会情勢の急激な変化に伴い、高校への進学率が急増。富士高等学校の入学資格を、中卒から高卒に移行することも検討された。加えて、時代は高度成長期を迎えていたため、矢崎グループでも人材の獲得に苦心することとなった。1970(昭和45)年11月末には、矢崎より、入学者の送り込みが不可能になったという申し出があり、1973(昭和48)年、富士高等学校は一時休校として再開を期することが本学園理事会で決定され、休校届が出された。しかし再開とはならず、1995(平成7)年5月18日をもって廃校となった。富士高等学校で実際に教育が行われた期間は9年、その歴史に幕を閉じた。

ブック(ニルス・ブック)

ニルス・ブック(1880年~1950年)は、1912(大正1)年に開催されたスウェーデンでのストックホルムオリンピックにおいてデンマーク体操団を指揮するなど、体操家として活躍。デンマーク・オレロップ国民高等体操学校(現・オレロップ体操アカデミー)の創始者で、デンマーク体操(基本体操)の考案者でもある。
小原國芳がブックの存在を知ったのは、1927(昭和2)年のこと。成城学園の体育教師になった三橋喜久雄のひと言がきっかけであった。「現在、世界の体育・体操家の中で一番偉いのは誰なのか?」と尋ねた國芳に対し、世界の体育を調査・研究してきた三橋は即座に「それはデンマークのニルス・ブック氏です」と答え、オレロップ国民高等体操学校で行われていたデンマーク体操の魅力を熱く語った。
1931(昭和6)年、玉川学園はニルス・ブックをはじめとするデンマーク体操団一行26名を日本で初めて招聘。デンマーク体操を教育の場に取り入れ、また、「オレロップ国民高等体操学校東洋分校」として協定を締結した。日本の各地での実演と講演の結果、デンマーク体操はさまざまに形を変えながら全国へ普及していった。

大グラウントにてデンマーク体操団の演技

1950(昭和25)年6月18日に、「ニルス・ブック七十歳誕生記念祭」を玉川学園で開催。記念祝賀会、記念芸能発表会、デンマーク研究展、デンマーク文化講演会など、玉川学園挙げての行事となった。祝賀会は、多くの在東京デンマーク人の人たちも参列し、盛大に催された。小学部・中学部・高等部・大学と全学的にデンマークに関する特別学習も実施。小学部生も約1か月にわたって総合学習としてデンマーク研究に取り組み、発表を行った。
ニルス・ブックの像が本学キャンパスにある。2009(平成21)年まで等身大のものが大体育館ロビーに設置されていた。これは1975(昭和50)年にオレロップより体操チームを招聘するにあたり、彫刻家の松田芳雄が制作したもの。そして、2011(平成23)年、オレロップ国民高等体操学校「東洋分校」80周年を記念して、本学記念体育館前に新しいブロンズ製の「ニルス・ブック像」を建立。台座には國芳による題字が用いられている。12月12日には、「ニルス・ブック像除幕式」が挙行された。

舞踊教育

玉川の舞踊教育はリトミックをベースとして、小学部の舞踊の時間から始まり、同じく表現教育としての演劇教育と深く連携しながら、しだいに充実の度を加えて、全学園的規模のものへと発展していった。
小原國芳はリトミック教育の意義を高く評価し、1929(昭和4)年に創立した玉川学園の幼稚部と小学部にもリトミックを正科として取り入れた。玉川では、リトミックを日本の教育界に紹介した小林宗作(当時、成城学園幼稚園長)を創設当時から招いて、直接に指導を受けた。1930(昭和5)年にはその小林を再渡欧させるなどして國芳はリトミック教育の普及発展につとめた。1933(昭和8)年には小林の弟子である山内千代子(後の溝江千代子)をリトミックと音楽の担当者として玉川の小学部および中学部の専任として迎えた。また、幼児期から山内の指導を受けていた小原純子は、1945(昭和20)年に玉川学園小学部講師となった。そしてリトミック教育の普及発展を継承していった。
小林を通じて早くから國芳と親交があった石井漠は日本における創作舞踊の創始者ともいうべき人物であった。その石井が1933(昭和8)年に独自の舞踊観をまとめた『舞踊芸術』を玉川学園出版部より刊行している。石井の舞踊教育の主張は、國芳の全人教育における芸術論と合致するとともに、ダルクローズのリトミック教育の主張やデンマーク体操における柔軟・リズム体操のあり方とも同じであると考えられた。玉川においてもリトミックやデンマーク体操と共に舞踊教育が重視された。1935(昭和10)年前後には小学部に舞踊の時間が特別に設けられ、石井カンナ、和井内恭子、石垣初枝など石井漠の直弟子が交代でその指導を担当した。
戦後、玉川学園小学部においてリトミック舞踊の時間を担当した小原純子は、石井漠舞踊研究所において石井の直接の指導を受けていた。そのリトミック舞踊の時間の中で純子は石井の舞踊教育を実践すると共に、舞踊の創作活動を自らも開始した。純子は岡田陽と結婚し岡田純子となり、1953(昭和28)年から、日本民俗芸能を題材とする創作舞踊家黛節子の指導を受けた。また純子は青森、富山、和歌山、徳島など各地における取材、および民俗舞踊のレパートリーをもつ江崎司らの指導によって数多くの日本民俗舞踊を手がけてきた。民俗舞踊のもつ素朴にして健康な主題や技法は学生、生徒の教材として適切であったし、西欧文化と共に日本古来の伝統文化に道を求める玉川教育のあり方からしても重要な教育活動であった。

1954(昭和29)年には第1回の玉川学園舞踊教室勉強会が玉川学園礼拝堂において開催された。1959(昭和34)年には玉川学園創立30周年を期して「玉川学園舞踊発表会」(都市センターホールにて開催)の名称を用いるまでになった。そして玉川の舞踊教育は小学部中心から全学園的規模のものへと発展していった。
1961(昭和36)年には舞踊を中心とした「メキシコ・アメリカ公演」を行って、舞踊教育は大きく飛躍した。1964(昭和39)年、玉川大学文学部芸術学科が発足。以後、小学部における「リトミック・舞踊」の授業と大学の文学部芸術学科演劇専攻の「舞踊」の授業を中核として舞踊教育は発展をつづけた。1968(昭和43)年には「ヨーロッパ公演」、1972(昭和47)年には「ギリシャ公演」、1978(昭和53)年には「アメリカ・カナダ公演」と演劇・舞踊による海外公演の実績も着実に積み重ねていった。
1980(昭和55)年には、玉川学園創立50周年記念の舞踊発表会が都市センターホールにて開催された。「和太鼓と舞踊」の芸術学部アメリカ桜祭り公演は2003(平成15)年にスタートし、以後毎年実施されている。そして、伝統芸能を通じて国際理解を深めた功績が認められ、2013(平成25)年10月、フィラデルフィア日米協会より「文化大使賞」を受賞した。

フレーベル像

二人の子供に本を読み聞かせているフレーベルの座像が幼稚部の入口にある。フレーベルは、「Kindergarten―幼稚園」を初めて作ったドイツの教育学者で、「Kommt,lasst uns unsern Kindern leben!(いざ、子供とともに生きん)」という言葉をモットーとして掲げて、幼児教育を実践した。
フレーベルの像は、1975(昭和50)年の5月17日と18日の両日に本学で開催された日本保育学会の初日に完成して、お披露目となった。当時は玉川池の横に幼稚部があり、その園庭にフレーベル像が置かれていた。彫刻家松田芳雄によって制作されたもの。
フレードリッヒ・フレーベル(1782年~1852年)は、ペスタロッチーに直接師事した経験を持ち、幼稚園の基礎を築いてドイツ全土に広めたドイツの教育学者。世界で最初に幼稚園を創立。幼児教育の父とも言われ、小学校就学前の子供たちの教育に一生を捧げた。幼稚園(Kindergarten)という言葉は、彼が造った言葉であり、また現在の幼稚園で行われている遊戯や歌や絵を描くことは彼のコンセプトから生れたもの。園庭や花壇といったものも同様である。フレーベルは、各個人の持つ神性の円満な発達を教育の目的とし、その実現方法として創造的自己活動を提唱した。そのため、遊戯や歌を重んじ、自ら数々の玩具を考案したそうである。
フレーベルの著書には、『フレーベル自伝』『幼稚園教育学』『人の教育』『母の歌と愛撫の歌』などがある。また、彼の生誕200年を記念して、その前年に『フレーベル全集』(全5巻)が本学出版部より刊行された。そして、日本翻訳出版文化賞を受賞。我が国におけるフレーベル研究の第一人者である荘司雅子(広島大学名誉教授、文学博士)を中心に、広島大学と玉川大学の研究者の協力のもと全集は完成した。
1982(昭和57)年、フレーベル生誕200年を記念して、「日本ペスタロッチー・フレーベル学会」が設立された。初代の会長には荘司雅子、副会長には長尾十三二(中央大学教授)、事務局長には藤井敏彦(広島大学教授)が選出された。本学からは、東岸克好(文学部教授)が常任理事、倉岡正雄(文学部教授)が理事、岡元藤則(文学部教授)が会計監査、石橋哲成(文学部講師)が事務局幹事に就任。第1回の大会は、1983(昭和58)年の8月27日と28日の2日間、本学を会場として開催された。

米国教育使節団

第二次世界大戦が終結し、敗戦国となった日本には多くのものが入ってきた。それはモノに限らず、文化や社会制度など、実に多岐にわたり、戦後の日本は大きく変化し、そして急速に国際社会で成長を遂げていくことになる。そうしたものの一つに、教育があった。
連合国軍最高司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、来日間もない1945(昭和20)年10月に「五大改革」と呼ばれる指令を日本政府に対して命じた。それは、「婦人の解放」「労働組合の奨励」「秘密警察の撤廃」「経済の民主化」「教育の自由化」であった。この「教育の自由化」が、戦後の教育改革の第一歩となる。第二次世界大戦以前の日本では、勅令により学校制度は学校の種類によって定められており、統一された学校体系が成されていなかった。教育勅語を柱とする日本史、地理といった科目には、とりわけ国定教科書の最終期となる4期・5期の内容には軍国主義的な側面が多く見られた。そこで連合国軍最高司令部はこうした状況を改善し、占領下日本の教育を再建するため、アメリカ政府に日本の教育事情の調査研究を要請。これにより、アメリカから教育使節団が日本を訪れることになる。
1946(昭和21)年3月に、総勢27人からなる第一次教育使節団が来日。約1か月という短い視察期間の中でもさまざまな教育施設を訪問。そして彼らの中の3人が、玉川学園を訪れた。なぜ教育使節団のメンバーが玉川学園を訪れることとなったのだろうか。かつて玉川大学文学部で教鞭を執っていた高橋靖直は、終戦当時に何度か学園を訪れたことがあるバーナード陸軍大尉がこの訪問を実現させたのではないかと述懐している。当時の使節団はいくつかの委員会に分かれており、「授業および教師養成教育」を担当している第二委員会の責任者がこのバーナード陸軍大尉であり、学園を訪問した3人はこの第二委員会のメンバーだったのだ。また「3人が玉川を訪ねたのは、ジョン・デューイの児童中心主義的なプラグマチズムの教育思想の影響を受けたと思われる私立学校の教育実践を、直接見てみたいということが第一の理由ではなかったかと思われる」とも高橋は語っている。
視察の当日、使節団のメンバーたちは子供たちの自学を中心とした学習、労作、芸能教育など玉川教育の成果を熱心に参観。小原國芳の教育内容を高く評価したという。
教育使節団は玉川学園を訪れた後に視察を終え、直後の3月31日にはマッカーサーに報告書を提出。この報告書は6年制小学校と3年制下級中学校における無月謝制、男女共学制、希望者全員入学制の実現などを勧告した。また修身・歴史教科書の改訂、保健体育や職業教育の重視、ローマ字の採用、教育行政の地方分権化、教師養成の水準向上、成人教育の充実、高等教育の機会拡大などについても提案。戦後日本の教育改革に重要な影響を与えた。
玉川学園も、この報告書によって生まれた学校教育法に則り、6・3・3・4制を導入するなどさまざまな変革があった。だが、連合国が示した生徒の創造性や個性を尊重し伸ばしていく教育は、従来の玉川学園の教育そのものであり、その意味では学園の根本は何ら変わらなかった。

ベートーヴェン像

1973(昭和48)年7月5日、大学の文学部芸術学科音楽専攻生による「交響曲第9番ニ短調 作品125(合唱付)」終楽章<歓喜に寄せて>(以下、「第九」)の歌声が響く中、聖山において、青銅に鋳造された「ベートーヴェン像」の除幕式が行われた。そのベートーヴェン像は現在、University Concert Hall 2016の正面広場に移設されているが、約50年もの間、玉川の丘で玉川の音楽を見守り続けている。
なぜ、玉川の丘にベートーヴェン像があるのか。それは1967(昭和42)年に東京で開催された「ベートーヴェン生誕200年祭記念展示会」に小原國芳が訪れたことに起因する。この展示会には東西ドイツをはじめ数か国から多数の資料が出品、その中にウィーン・ハイリゲンシュタット公園のベートーヴェン像を日本国内で複製したものがあった。その像を見た國芳は玉川の丘にも是非欲しいと望み、その國芳の熱意が展示会の代表者に伝わって、その像を本学園で譲り受けることになる。

そしてベートーヴェン像は、小原國芳の胸像のある聖山の一角に設置され、奏楽堂や器楽演習室、大学4号館(音楽研究室)で学ぶ学生たちを励まし続け、本学の音楽教育を見守ってくれていた。2016(平成28)年9月、講堂・視聴覚センター・器楽教室がUniversity Concert Hall 2016に新しく生まれ変わり、このエリアに音楽教育機能が集約。これを機に、ベートーヴェン像はUniversity Concert Hall 2016の正面広場に移設された。
なお、本学では大学1年生全員がベートーヴェンの「第九」を、毎年12月の大学音楽祭で合唱、演奏している。

北海道弟子屈農場

北海道弟子屈農場は、阿寒国立公園内にある摩周湖と屈斜路湖のほぼ中間に位置し、雄大な自然に囲まれた施設である。本学がこの用地を取得したのは1972(昭和47)年。最初に購入したのが屈斜路湖畔の50ヘクタール近い土地で、現在は演習林用地になっている。つづいて、12月に取得したのが美留和地区の69ヘクタールの土地。そして、この土地は農学部に委ねられ、牧場を建設することとなった。名称はとりあえず屈斜路酪農研修農場とした。当時学長であった小原哲郎は、『同窓会報』第39号に掲載された「学長就任記念対談」の中で、その時のことを次のように述べている。

今、北海道に35万坪近い土地を購入した……何もない荒地へ行き、己が精神力を問うてみるなり、肉体の限界を試してみるなり、あるいは思索の場とするなりもいいでしょう。それは、今すぐには役立たないかも知れませんが、何十年か後に、必要になるのではないかと考えるわけです。

1973(昭和48)年4月から現地管理人1人を委嘱して、必要な作業を行い、第1回目の建設準備作業団を夏休みに派遣した。牧場建設にあたっては、農学部畜産学担当の石井幹教授が中心となり計画が立案された。そして、できる限り学生の手で実習を兼ねながら牧場建設を行うという方針のもと、石井教授は約20人の学生を連れて現地に赴いた。それが農学部長期宿泊実習のスタートであった。1984(昭和59)年9月16日には、牛舎が完成。以後、現在にわたって、肥育牛の飼育、ソバ、ワイン用ブドウの栽培、造林が行われるほか、演習林やその周辺ではエゾシカ、エゾリス、キタキツネなどの動物もおり、豊かな自然環境の中での生態系研究フィールドとして、主に農学部生の農場実習、卒業研究等の拠点となっている。具体的には、農学部の生物資源学科(2017年より生産農学科に改組)3年生(選択)と生物環境システム学科(2017年より環境農学科に改組)2年生(必修)が毎年夏に約1週間の実習を行う。また、卒業研究の調査のために長期に滞在する学生もいる。

2014(平成26)年には農場内に宿泊機能を備えた美留和晴耕塾が竣工され、農学部のほか、多くの生徒や学生の教育、研究の場としての活用が期待されている。「美留和晴耕塾」という名称は、北海道弟子屈の地と晴耕雨読に通じる日本人としての基本を大切にしたいという思いから命名された。
2015(平成27)年5月22日、学校法人玉川学園と弟子屈町が「包括連携に関する協定」を締結。この協定は、相互の幅広い分野で包括的に緊密な協力関係を築き、持続・発展的に連携を深めることにより、地域社会の発展や未来を担う人材育成に寄与することを目的として実現したもの。この協定の締結により、今後、学校法人玉川学園は、弟子屈町との連携を進め、本学の持つ教育・研究的資産を地域社会の発展や人材育成に向け発信していくこととなる。

ボルノー(オットー・フリードリッヒ・ボルノー)

オットー・フリードリッヒ・ボルノー(1903年~1991年)は1903(明治36)年、当時のドイツ領のシュテッティン(現ポーランド)で生まれた。ゲッティンゲン大学で結晶の格子理論など物理学と数学を学ぶ。1931(昭和6)年に教育学と哲学の教授資格を取得。1953(昭和28)年にはシュプランガーの後継者としてテュービンゲン大学へと招聘される。以後、1970(昭和45)年の退官まで教授として学生の指導にあたると同時に研究を続けた。
こうした研究活動の合間を縫ってボルノーは日本を訪問。その際に小原國芳とも会っている。ボルノーと國芳が出会ったのは1959(昭和34)年の秋のこと。東京で世界比較教育学会が開かれ、その関係で海外の教育学者が多数玉川学園を訪れたのである。その中の1人がボルノーだった。「日本に行ったら、ぜひ玉川を見よと、シュプランガー教授はおっしゃいました」と、当時ボルノーは國芳に語っている。
その後、1966(昭和41)年にもボルノーは玉川を再訪している。その時、学生を指導する講師として。数回の講義を行った後、「ぜひ名誉教授に」という玉川大学の申し出も快諾している。そうした関係から生まれたのが、玉川大学出版部発行の『世界教育宝典』の一冊『人間学的に見た教育学』。ボルノーによる書き下ろしである。刊行は1969(昭和44)年。
ボルノーはその後も5回にわたって玉川大学を訪問。学生たちに平易な形で哲学と教育学の本質を説くと同時に教員と親交を深め、玉川大学の教育研究の発展に多大な支援を行った。このような永年にわたる日独文化交流と日本の哲学・教育学への功績により、1986(昭和61)年度秋の叙勲で勲三等旭日中綬章を受章した。
玉川はゲーテが「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」の中で夢見た教育を具現化したものであり、創立者の小原國芳は人間性の巨匠であるとも述べたボルノー。彼は物語の中の理想郷を、玉川の丘に見たのである。

本間俊平
来園時の本間(左)と國芳
1930(昭和5)10月

玉川学園の礼拝堂は、『本間俊平全集』(玉川学園出版部発行)の印税を基金に建立されたので、「本間記念礼拝堂」とも呼ばれた。その本間と小原國芳との出会いは、ずっと以前に遡る。
教育界の大御所であった澤柳政太郎校長の招きで、1919(大正8)年12月、牛込原町にあった成城小学校の主事として上京した小原國芳。國芳は主事として新教育運動に力を注いだ。1921(大正10)年8月、「全人教育」を提唱、そして翌1922(大正11)年4月、成城小学校と同じ学風をもった成城第二中学校を新設した。だがその翌年の1923(大正12)年に関東を襲ったのが、あの大震災。そこで郊外に新たな土地を探すこととなった。1924(大正13)年、國芳37歳のときであった。
候補地をいろいろと検討したがなかなかこれはという土地は見つからなかった。國芳は、かねてから尊敬していた「秋吉台の聖者」といわれ、不良少年感化事業を行っていた本間俊平を訪ね、考えを聴くことにした。そのときのことが、『教育一路』(小原國芳著/玉川大学出版部発行)に、次のように記述されている。

大正十三年の正月、寒い日でした。私は山口県の「秋吉台の聖者」本間俊平先生をたずねました。金策と学校経営についてのお知恵を拝借したかったのです。
「僕に金はないよ。何年か前、加島銀行の広岡あさ子さんが、五十万円使ってくれといって持って来られたが、私は、必要な時は神さまが下さることになっているといってお断りした。その金が近江八幡のヴォーリスというアメリカ人のところにあるはず。奥さんは広岡のご主人の妹さんだ。紹介状を書くから、帰りに寄ってみたまえ」
やがて先生は、大きな東京地図をひろげて、腕組みをなさる。
「君、十マイル(十六キロ)郊外へ出たまえ。西南だ。東北本線沿いは寒い感じがする。千葉方面は本所深川を通るから品が落ちる。東海道線はもう横浜まで家がつまっている。これからはきっと、新宿あたりから小田原へ向かって新しい線が出来る。安く買い占めろ」
「でも先生、十マイル離れると、小学生なぞは通えないではないですか」
「ばかやろう!お前が立派な学校をつくれば、交通はおのずからついてくる。交通のついて来ないような学校ならつぶしてしまえ」

やがて、本間の予言通り、新宿から小田原に向かって小田急線が開通した。そして、國芳は持ち前の行動力を発揮し、今の成城学園がある砧村喜多見の高台の土地を購入。その際に小田急電鉄の土地購入にも協力した。そして、駅名を学校名と同じにする、急行電車を停めるという二つの約束を小田急電鉄との間で取り交わした。さらに國芳は購入した土地145,000平方メートルのうち、50,000平方メートルを学校の敷地として寄付し、残りの95,000平方メートルを住宅地として売却し校舎等の建設の資金とした。駅ができ、学校ができ、住宅ができ、成城学園の町がつくられ、発展していった。本間と國芳の出会いによって、現在の成城学園が誕生したといえる。

本物に触れる

小原國芳は常に「本物に触れる教育が大切である」と考えていた。
1930(昭和5)年には、生徒の「どうせ習うなら、世界で一番スキーのうまい人に教わりたい」という言葉に応えるべく、当時“スキーの神様”と呼ばれたオーストリアのハンネス・シュナイダーを招聘。その後もデンマーク体操(基本体操)の考案者ニルス・ブックなど各分野での第一人者を数多く招聘している。現在も各分野の著名人を招き、講演や実技指導などを行うほか、大学「研修行事」では演劇鑑賞、音楽鑑賞をはじめ歌舞伎や能・狂言といった伝統文化の鑑賞など一流の芸術文化に触れる機会を数多く設けている。
また「本物=実物」という面から、教科書に載っている挿絵や写真だけではなく、実物を見る、触ることでその質感を感じ取り、理解を促す教育も活発に行っている。教育系資料を中心に、芸術作品も収蔵する教育博物館はキャンパス内にあることから、授業や実習でも活用されている。小学生の社会科の授業で縄文・弥生時代の土器にふれた児童からは「表面がざらざらしている」「重たい」といった感想が聞こえてくる。この感覚は教科書からだけでは決して得られない。また大学の博物館実習でも、本物を用いての作業は、実践さながらの緊張感をもって行われている。
同じキャンパスの中に幼稚部から大学・大学院、さらには研究所まであることが、本物に触れる機会を格段に大きくしている。
このほかにもさまざまな機会で本物に触れる教育が行われている。世界一あるいは一流のものは見る者に衝撃や感動を与え、一人ひとりの心により印象深く刻まれるものである。この感情こそが、真理を追究する者にとって大切なものであると玉川学園は考えている。

マ~モ

窓から飛び出せ

映画『窓から飛び出せ』の撮影は、大部分が玉川の丘で行われ、礼拝堂、聖山、玉川池など当時の玉川の丘が大画面に浮び上った。
新東宝製作・配給の日本映画『窓から飛び出せ』は、1950(昭和25)年3月26日に公開された。モノクロ作品で上映時間は1時間20分。後援、学校法人玉川学園。昭和初期から戦後にかけての日本映画の黄金期に人気を博し活躍した大日方傳(おびなたでん)が主演。また大日方が初めて製作した作品であり、原作も担当。監督は島耕二。出演は当時若手俳優だった小林桂樹をはじめ、戦前から活躍していた藤原釜足、轟夕起子、杉狂児、汐見洋、岡村文子、鳥羽陽之助、この作品がデビュー作の香川京子など。香川は久我美子の代役での幸運なデビューとなった。また、大日方の息子2人と娘2人も出演している。本学の生徒たちも出演。
1950(昭和25)年1月半ばから撮影開始。大日方は撮影所のセットを使用せず、オールロケで撮影。そして自然豊かな玉川の丘と自分の家を撮影場所に選んだ。この映画では、礼拝堂、聖山、玉川池など自然豊かな玉川の丘の風景はもちろんのこと、本学に通じる歌声がたくさん登場。例えば「うるわしのしらゆり」といった玉川の丘でもとても愛されている讃美歌も奏でられた。12月24日深夜に聖歌隊が家々をまわるクリスマスキャロルも登場。これも本学の年中行事であった。「もろびとこぞりて」や「きよしこの夜」の美しい歌声が玉川の丘に響きわたる。ラストの模型の船を玉川池に浮かべるシーンでは、第九合唱の歌声が力強く流れる。本学では「年末には第九」が恒例行事になっている。
なお、1950(昭和25)年4月8日、小学部・中学部合同の入学式が行われ、その終了後に本学の礼拝堂において、この映画が上映された。

満蒙皇軍慰問公演

玉川学園は、1932(昭和7)年に建国された満洲国より、翌年に4人の留学生を受け入れた。そして、1934(昭和9)年に留学生部を設置。その年42人の満洲国からの派遣留学生を迎えた。玉川学園における留学生部の活動期間は決して長いものではなかったが、そこには「アジアの外交は玉川の丘より」を提唱する小原國芳の想いが結実していたのではないだろうか。1942(昭和17)年、中学部の生徒は406人で、アジアからの留学生だけで25人が在籍していた。
留学生を受け入れるだけではなく、玉川学園からも公演を目的に生徒たちを満洲などへ派遣した。1938(昭和13)年には6人による皇軍慰問隊が上海、南京、漢口等に出かけた。
1936(昭和11)年、玉川学園の公演旅行が秋田県を中心にスタート。第2回以降の公演旅行は関西・九州地方、東海地方、関西地方、土浦・日立方面、広島・九州方面、宇都宮、吹田市・天王寺など、まさに全国を回るものであった。公演旅行は国内に留まらず海外でも行うこととなり、皇軍の慰問を兼ねて計画された。各公演地の交渉役として「歴史」担当の吉田孝と「経済」担当の原正一の両教諭を先発隊として派遣。そして、1940(昭和15)年4月から6か月間にわたり「満洲研究」というテーマで学園あげての大規模な合同研究である総合学習が行われていた同年6月10日に、満蒙への皇軍慰問団が、朝鮮、満洲、蒙古へ出発した。
引率者は、団長が小原國芳学園長(当時)、女子担当が小原信夫人、そして父母の白石嵯峨。引率者と35人の生徒は、6月11日に下関から船で釜山に入り7月24日まで延べ45日間にわたって、陸軍病院39か所、部隊慰問、満鉄関係、師範学校、その他小・中・女子校、一般の人々への発表なども含め、50数回の音楽や体操の公演を披露した。1日3回の公演はたびたびで、大邱などでは1日5回も公演。7月19日に門司に戻り、帰園途中で、折尾、大島商船学校や大阪などでも公演を行い、7月25日に帰園した。公演の様子は、6月18日付の滿州日日新聞に「“新體操”を實演 玉川學園の一行あす奉天へ」というタイトルで紹介されている。
参加した生徒の中に、専門部3年の小原哲郎(のちに玉川学園理事長・学長・学園長)、女子高等部3年の橋本春江(のちに小原哲郎夫人)、女子高等部4年の小原百合子(國芳の長女/のちに玉川学園女子短期大学教授)、女学部1年の小原純子(國芳の次女/のちに玉川大学講師)、中学4年の橋本道(のちに文学部教授)などが含まれていた。慰問公演中、体操担当が小原哲郎、音楽担当が専門部3年の栗林昭一、ピアノ伴奏は女子高等部2年の内藤弘子が担当した。

ミツバチ研究

ミツバチは巣に帰ると8の字型にダンスを踊り巣にいる仲間たちに蜜や花粉などがある場所を知らせたり、複雑な構造をした六角形の巣を作ったり、蜜を加工して巣に蓄えて蜂蜜にしたりすることでよく知られている。また、仲間との分業で協力し合う習性を持っている。これは高度なコミュニケーション能力を有していることを意味する。ミツバチは95万個(ヒトは140億個)の脳細胞しか持たないが、高等なサルにも匹敵する記憶力と学習能力がある。そのミツバチの研究が玉川学園で始まったのは1930(昭和5)年に遡る。
その後戦前・戦中にかけて玉川学園におけるミツバチの研究は途絶えていたが、ミツバチの花粉媒介を利用した果樹類の増産に挑戦すべく、1950(昭和25)年に玉川大学農学部ミツバチ研究室の岡田一次によってミツバチの研究が再開された。戦後間もない食料不足に悩む時代、昆虫学研究は害虫防除の研究が主であったが、玉川大学は益虫に注目し、ミツバチ研究に着手。それから約30年後の1979(昭和54)年に、玉川大学農学部でのミツバチ研究の成果を受け継ぎ、国内外の諸研究機関との交流と国際的な貢献を目的に、日本で唯一のミツバチに関する総合研究機関として、ミツバチ科学研究所が設立された。初代主任は岡田一次であった。
ミツバチ科学研究所が設立された翌年の1980(昭和55)年に機関誌『ミツバチ科学』(季刊)を創刊。最新の学術情報のほか、ミツバチに関わる理系・文系のあらゆる分野を網羅して掲載する学際的な学術誌として、国内の研究者や養蜂家、官公省関係者、生産物加工に携わる製薬・食品関連企業のみならず、海外の多くの研究機関や企業も読者となっている。

1982(昭和57)年にミツバチ科学研究所は、国際ミツバチ研究協会東アジア図書分室に指定される。1992(平成4)年には、アジア養蜂研究協会事務局を設置。2012(平成24)年まで事務局を担当し、タイやベトナムなどアジア各地でミツバチの国際会議を開催した。1994(平成6)年にミツバチ科学研究所は、玉川大学学術研究所に統合され「ミツバチ科学研究施設」と改称。1999(平成11)年、部門制の導入により3研究部門(ミツバチ生物学研究部門、ミツバチ生産物研究部門、花粉媒介機能研究部門)を設立。翌2000(平成12)年には、玉川大学でのミツバチ研究50周年,『ミツバチ科学』刊行20周年を迎えた。2008(平成20)年、組織改編に伴い「ミツバチ科学研究センター」と改称。
毎年1月に開催し、全国から約300人の参加がある「ミツバチ科学研究会」は、研究成果の公表の場として、また参加者間の交流の場としても提供されている。第1回目の開催は1980(昭和55)年1月で、玉川大学農学部において開催された。2018(平成30)年は1月7日の日曜日に開催。40回目の開催となった。国際的な交流も盛んで、多方面にわたる国際的な研究交流と養蜂の普及、振興の両面の活動を行っている。
1985(昭和60)年、農学研究科修士課程に所属していた小野正人(現在玉川大学農学部教授、学術研究所長)がニホンミツバチの「布団蒸し殺法」(熱い蜂球でスズメバチを蒸し殺す)を発見。玉川発の世界的発見となった。そして、1987(昭和62)年にスイスの国際誌に発表され、フェロモンなどが関与するメカニズムの解明とともに、1995(平成7)年イギリスの科学誌『ネイチャー』に掲載。その後、大きな反響を呼び、世界各国のメディアで紹介された。さらに2003(平成15)年、同氏らはオオスズメバチの複数成分系警報フェロモンを解明し、イギリスの『ネイチャー』誌に掲載され、国際的な注目を集めた。
将来、人間が火星で暮らすには、現地で野菜を生産することが必要で、そのためのハチの火星での授粉の可能性を調べることを目的として玉川大学とJAXAの共同研究がスタート。2010(平成22)年から2011(平成23)年にかけて、クロマルハナバチを使って共同実験が行われた。その結果、重力が地球の約3分の1しかない火星でも、ハチが飛べることを確認した。

南さつまキャンパス(久志農場)

南さつまキャンパスは、鹿児島県の薩摩半島の最南西端、南さつま市坊津町久志にあり、総面積は約10万平方メートル。ポンカンを中心とする柑橘類の栽培に加え、冬季温暖な気候を利用したマンゴーやパッションフルーツなどの熱帯果樹などの栽培にも力を入れている。
1977(昭和52)年4月、玉川大学農学部は大学院農学研究科開設にあたって、熱帯資源植物研究を行える施設の新設を要望した。その要望を踏まえて、施設用地の選定に着手。無霜地帯の中でも冬季温暖であり、熱帯資源植物研究には最適の地であることから、鹿児島県の久志丸木浜が候補地として選ばれた。そして、交渉の結果、土地だけではなくポンカン園も入手できることとなった。
久志は小原國芳の生誕地でもあり、本学との関係が深い土地である。1948(昭和23)年5月には玉川大学附属久志高等学校を開校(1980年3月廃校)。現在も國芳ゆかりの地として、小原國芳生誕地公園をはじめ小原國芳立志修行の地や大浜電信局跡地の石碑、小原國芳勉学の道の標識柱などが設置されている。
1978(昭和53)年1月29日、当時学長であった小原哲郎が出席して久志農場の開場式を挙行。故小原國芳を慕う坊津町葬が厳かに行われた翌日のことであった。当時は道路らしい道路は全くなく、道路の新設、整備を緊急に行う必要があった。

翌1979(昭和54)年、第1回久志農場特別実習が行われた。実習内容はポンカンの収穫や剪定などの作業であった。1980(昭和55)年4月から1995(平成7)年3月までは、農学部の教職員が駐在。1998(平成10)年頃から新しい系統のポンカンを植え始めた。2000(平成12)年から熱帯果樹の栽培を本格化。2010(平成22)年、農場のポンカン果汁を使用したシャーベットの製造を開始し、購買部でも販売。
年平均気温が約18度と温暖な南さつま市。そのため、丸木浜の白砂の浜・サンゴの海に面したこのキャンパスは、冬でも暖かく、その気候を利用して、ポンカンなど30種類の柑橘類の果樹を中心にマンゴーやライチ、パッションフルーツなど亜熱帯性の果樹を栽培し、機能開発を実施。学生たちは、実習として、果樹の管理作業や植生調査を行っている。また、丸木浜の岩場にはたくさんの熱帯魚が生息しており、農場とともに学生たちの自然体験や調査などの実習の場となっている。
2019(平成31)年の玉川学園創立90周年事業の一環として、玉川大学南さつまキャンパス「久志晴耕塾」を建設。これまで主に農学部の実習の場として活用されてきたが、今後は玉川大学・玉川学園全体で活用できるよう期待されている。また、玉川学園は、2012(平成24)年6月1日に、南さつま市と包括提携に関する協定を締結した。

武者小路実篤

1934(昭和9)年6月9日、第7回労作教育研究会の講師として玉川学園に初来園した武者小路実篤は、玉川学園内に設立された興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の設置にも関わっていた。そして、実篤と國芳には、村づくり・町づくり、理想郷の実現・夢の学校の実現といった共通する思いと行動力があった。
武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)は、1885(明治18)年5月12日に東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の公卿の家系である武者小路家に生まれた。学習院初等科、中等学科、高等学科を経て、1906(明治39)年に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。翌年、学習院時代に同級生だった志賀直哉や、木下利玄たちと十四日会を作り創作活動を開始。その年大学を退学。1908(明治41)年には『荒野』という作品集を自費出版する。1910(明治43)年、志賀直哉や有島武郎などと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らは白樺派と呼ばれた。
1918(大正7)年に実篤は、階級闘争のない調和的な社会という理想郷の実現を求めて、宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設。実篤はその村で農作業を行いながら執筆活動を継続。そして、大阪毎日新聞に『友情』を連載。しかし、木城村の「新しき村」はダムの建設により大半が水没する。そのため、「新しき村」建設の6年後の1924(大正13)年に実篤は離村し、会費のみを納める村外会員となった。しかし、理想郷実現の夢を捨てきれない実篤は、1939(昭和14)年、埼玉県入間郡毛呂山町に「新しき村」を建設した。
また、1936(昭和11)年の欧米旅行で各地の美術館を訪問するなど美術にも関心が深く、多くの評論を著し、自らも絵筆をとり40歳頃から絵を描くようになる。芸術院会員にもなっていた。1948(昭和23)年には主幹として同人誌「心」を創刊し、『真理先生』を連載。晩年には絵に「君は君 我は我也 されど仲よき」などのことばを添えた色紙をさかんに揮毫していた。このように実篤はその生涯を通じて、文学はもとより、美術、演劇、さらには思想と幅広い分野で活躍。1951(昭和26)年には文化勲章を受章した。
実篤の代表作には、小説では『友情』『真理先生』『お目出たき人』『愛と死』『幸福者』、戯曲では『その妹』『ある青年の夢』などがある。

村の第一夜

調和のとれた人間形成を目指す学校を、自らの手で、一からつくりたい。労作教育と塾教育の実践の場を得て、より人間的な真(マコト)の教育をしたい。小原國芳が「夢の学校」建設に着手したのは、成城高校の校長を務めていた42歳のときであった。そして國芳が思い描いた「夢の学校」は、1929(昭和4)年4月、玉川学園として産声を上げることとなる。
1929(昭和4)年3月31日、國芳の家族をはじめ教員の3家族や若い塾生など、あわせて20余人が玉川学園村に移り住んだ。それは文字通り、移住というにふさわしかった。まだ玉川学園前駅も開業していないので荷物はトラックで、國芳らは長い道のりを歩いて村にたどりついた。新校舎を建設しているとはいえ、山林も同然の土地であり、それまでは村の小学生がはるばる遠足に出かけるような場所であった。この日を境に、玉川学園村には夜、数軒の家に明かりが灯り始めた。
「諸君、新しい日本を動かすべき力はここから生れなければならない。いや、必ず生れると僕は信ずる。・・・やろうじゃないか。1929年の3月31日という日を、世界歴史の一頁に、必ず書き落とすことの出来ない日としようじゃないか。・・・僕等がこれからなしとげる仕事の大小は、恐らく今夜の決心の大小によって殆ど決まるだろう。」玉川学園村に移住して来た最初の夜、皆で食卓を囲み、上述のように語った國芳の言葉は、やがて現在の玉川学園の発展につながっていった。

メキシコ親善使節団

1960(昭和35)年、小原國芳はメキシコで行われた第3回国際大学協会総会に、日本私立大学の代表として出席。その際、メリダ市のメリダ大学(現在のユカタン州立自治大学)医学部付属のオーラン病院に立ち寄り、1919(大正8)年に同所で医学の研究を行った野口英世の研究室を見学。その時に野口英世から直接指導を受けた同大教授たちから「博士の遺徳を永遠に顕彰したい。そのために野口英世博士の記念像がほしい。」という希望があることを國芳は聞く。國芳はその話を受けて、野口英世の銅像を贈呈する約束をした。
この話を聞いた学生、生徒たちはお小遣いやアルバイト代を集め、また礼拝献金などを加えることで約17万円の資金を作った。野口記念会の協力もあり、日本芸術院会員の吉田三郎の制作により、野口英世のブロンズ立像が完成。そして、1961(昭和36)年3月2日、駐日メキシコ大使を玉川の丘に招き、全学園あげての銅像贈呈式を行った。その後、日本の外務省の協力を得て、銅像は無事にメリダ市に運ばれた。
1961(昭和36)年6月25日の除幕式には、玉川学園メキシコ親善使節団(団長:小原國芳、教職員7人、研究生5人、大学生9人、高等部生9人、中学部生5人、小学部生4人の計40人からなる。副団長はメキシコ公演の総監督でもあった岡田陽)がメキシコ政府から招聘を受け、当時の駐墨大使も列席する中、オーラン病院の正門中庭で盛大にセレモニーが行われた。玉川学園メキシコ親善使節団のメキシコ滞在中の費用は、すべてメキシコのユカタン州政府が負担。
除幕式終了後には、州知事招待のレセプションに参加。総勢100人に近い盛大なパーティーであった。さらに、学生、生徒たちによる日本芸能公演「日本の日」が企画された。一行は「日本文化の夕べ」公演で、日本の歌や演劇、伝統舞踊などを披露。その後、さらにオァハカ市、メキシコ市を訪れて日本文化を紹介する公演を行い、文化交流を推進した。テレビやラジオにも出演(4回)、現地の新聞にも大きく取り上げられた。
日本大使の招待会への参加や文部大臣訪問、さらにはメキシコ大統領を表敬する機会を得た。大統領は、40人の学生、生徒、児童、教職員の一人ひとりと握手。
そして一行は、メキシコでの2週間を終え、アメリカのロサンゼルスとハワイに移動、そこで約10日間滞在。6月21日から7月17日までの26日間、メキシコ、ロサンゼルス、ハワイに滞在した一行は、メキシコ市、メリダ市、オァハカ市、ロサンゼルス市、ホノルル市で計13回の芸能公演を実施した。

野口英世像除幕式
メキシコ大統領を訪問

ヤ~ヨ

梁田貞

梁田貞(やなだただし)は、「城ケ島の雨」「どんぐりころころ」「沖の小島」「村の道ぶしん」などの作曲で知られ、日本の音楽史上に大きな足跡を残した。梁田と小原國芳との親交は、1922(大正11)年、当時牛込の成城尋常小学校主事であった國芳が梁田を音楽教師として迎えてより始まった。音楽を教えていた真篠敏雄がパイプオルガンの修練のためにベルリン大学に5か年の留学に行くこととなり、その後任に真篠が推薦したのが梁田であった。そして國芳は玉川学園を創立し、1948(昭和23)年には梁田を玉川大学に招聘。その後、二人の信頼関係は終生変わることがなかった。
梁田(1885年~1959年)の永眠後、梁田を慕う者たちの手で、三浦三崎に「城ケ島の雨」の音楽碑が作られ、札幌の創成小学校には梁田の胸像と「どんぐりころころ」の音楽碑が建てられた。さらに玉川大学出版部より『梁田貞名曲集』が刊行された。1968(昭和43)年5月9日に行われた札幌の創成小学校での梁田の胸像と音楽碑の除幕式には、國芳は自ら高等部生350名を引率して参列。高等部生が合唱と玉川体操を披露した。胸像は白御影の台の上に置かれ、音楽碑は大きな黒御影の石に「どんぐりころころ」の曲が彫られていた。

1961(昭和36)年に東映が、梁田をモデルとした映画『音楽教師』(監督は今泉善珠、16ミリ映画、50分)を制作。文部省選定、東京都教育委員会準特選、第7回教育映画コンクールで銀賞受賞。
1985(昭和60)年7月3日午後6時より、日比谷の第一生命ホールにおいて、「梁田貞先生生誕百年記念音楽会」が開催された。玉川学園からは酒井常務理事をはじめ、大学合唱団、卒業生、父母など多数が参加。ありし日の先生を偲び、先生の歌を心から楽しんだ。

ヨーロッパ公演旅行

1968(昭和43)年、ベルリンにおける第2回国際青年演劇祭(略称インタードラマ’68)への出演をきっかけに、ヨーロッパ各地より玉川大学のヨーロッパ巡演を積極的に支援する旨の便りが届いた。これはデンマークのアーネ・モルテンセン、ニルス・ソレンセン、ドイツのオットー・フリードリッヒ・ボルノー、スイスのヴェルナー・チンメルマン、その他の方々のお骨折りによるものであった。やがて、ベルリンの国際青年演劇祭当局から正式の招待状も届き、国内では外務省、国際文化振興会等の賛同のもと、駐日ドイツ大使館、ローマ法王庁大使館等の積極的な支援により体制が整った。
1968(昭和43)年4月20日から6月21日までの約60日間にわたって、玉川大学演劇舞踊団は、アラスカ、デンマーク、ドイツ、スイス、イギリスで23回の公演を行った。公演はヨーロッパの若者たちに感動と興奮を与え、各地の新聞紙上でも激賞を受けた。舞台公演の披露はもちろんのこと、学生交歓やヨーロッパ文化に触れることも目的であり、公演後イタリア、ギリシャの見学旅行も日程に組み込まれた。ヴァチカン宮殿訪問時には、パウロⅥ世ローマ教皇が団員の一人ひとりと握手し祝福してくださった。
玉川大学演劇舞踊団は、大学生が21人、中学生が1人、教職員が7人。演目は木下順二作「夕鶴」と日本民俗舞踊。なお、ヨーロッパ公演直前の4月17日に東京の都市センターホールにおいて、「玉川大学演劇舞踊団 ベルリン国際青年演劇祭出演披露公演会」を開催した。

ヨーロッパ派遣演劇舞踊団が出発
パウロⅥ世ローマ教皇に特別に謁見

ラ~ロ

雷々亭

1930(昭和5)年、小原國芳は、礼拝堂がある小高い聖山の中腹に自宅を建設し、そこに移り住んだ。そして、國芳は1977(昭和52)年12月に亡くなるまでこの家で過ごした。
建物は平屋建ての部分と2階建ての部分があるが、傾斜地に建てられているため3階建てのようになっている。建物の向かって一番右側にある平屋建ての部分が「お客の間」。その名の通り、お客様を迎える部屋である。そこから階段を上がったところに國芳夫妻が生活をしていた部屋が置かれていた。さらに両側に本棚が並ぶ階段を上ると書斎などの部屋がある階になる。書斎は天井まである本棚に囲まれている。ここで國芳は執筆などを行った。そして、その階下に雷々亭があった。
雷々亭の名前の由来は、國芳の落とす雷からきていると言われている。たびたび雷を落とすことから雷が二つ。この雷々亭では、学長と新入生の懇談会が行われた。國芳は新入生一人ひとりに名前や郷里をたずねながら懇談をしていた。國芳の後に学長となった小原哲郎もそれを引き継いで、新入生との懇談会を雷々亭で行った。
國芳夫妻が生活を送っていた住居は、お二人が亡くなった後、小原記念館として保存された。2016(平成28)年に小原記念館の大改築工事が始まり、2017(平成29)年3月30日に竣工。4月1日より新しくなった小原記念館が開館された。「お客の間」は耐震改修工事を、その他の部分は展示室としての工事を実施。國芳夫妻が生活をしていた中央棟の部分は、1階が学友会事務室とホール、2階が展示室に。かつての「雷々亭」は談話室となっている。壁に大きなディスプレイが設置されており、映像を流すことが可能である。現在は、展示室見学前のガイダンスや打合せなどで使用している。

ランシング(ハリエット M.ランシング)

ハリエット M.ランシング(1863年~1931年)は、明治20年代にキリスト教の伝道のために来日し、長崎で過ごす。長崎では、教会が運営していた梅ケ崎女学院の先生を務めた。そして、「日本キリスト教会」の設立を機に、長崎から鹿児島に移り住んだ。
1905(明治38)年、小原國芳18歳のとき、向学の念を抑え難くなり、勤めていた鹿児島県の大浜電信局を辞めて鹿児島県師範学校に入学した。國芳は、最初の日曜日に、行きたかったキリスト教の教会を探して回った。それは大浜電信局時代、鹿児島市から月に一度やって来た牧師さんより聖書の話を聞いたり、讃美歌を習ったことからキリスト教に興味を持ったためであった。そして國芳がやっと教会を見つけて、その入口に近づいたときに、一人の西洋婦人が心優しく中へ招き入れてくれた。その西洋婦人がランシングであった。
礼拝が終わって帰ろうとした國芳を、ランシングが出口のところで待っていた。用件は日曜学校の小学生の授業を一クラス受け持ってほしいというものだった。そして、その依頼を承諾した國芳は、毎日曜日の朝、ランシングの家に行き、教える内容や教え方を学び、それをもとに日曜学校の授業に臨んだ。
國芳は日曜学校の後で、ランシングからキリスト教の教えについて話を聞いた。さらにランシングからよく食事をごちそうしてもらった。國芳は早くに母を亡くしたこともあり、「何だか、母の生まれかわりのようなありがたさが、だんだんまして来ました。どこか、母の顔形にも似ておられました」とランシングについて語っていた。國芳が電信局での仕事の忙しさから胸を痛め、時々咳き込んだり、微熱を出したりしたときには、「薬より栄養です。」と言って、ランシングが夕食をごちそうしてくれたこともあった。
やがて月日は流れ、1909(明治42)年、國芳は広島高等師範学校本科英語科に入学。鹿児島の地を離れることになった。さらに1919(大正8)年12月、國芳は澤柳政太郎の招きで東京市牛込区(現在の新宿区)の成城小学校の主事として上京した。1924(大正13)年には、今の成城学園がある砧村喜多見の高台の土地を購入し、学校づくり、町づくりを行った。その成城学園の開拓期に、ランシングが九州を引き上げて成城にやって来た。当時國芳は講演のため日本中を駆け巡っていた。そして日本の教育を引っ張っていくのだと語った國芳に、ランシングは「ドント・ビー・プラウド!」(自慢してはなりません)と毅然な態度で言い放った。そのわが子を叱る母親のような言葉に、頭から冷水をかけられた気がしたと國芳は後に語っている。その当時のことが、小原國芳著『教育一路』に次のように記されている。

なつかしい宣教師ランシング先生も九州から成城学園入りして下さいました。少しでも宗教教育をしてもらいたかったからです。私の家の屋敷の中に洋館を建てて、お迎えしました。小学校、中学校の英語、高校生の日曜学校、婦人たちを集めての家庭教育など、新しい学園づくり、町づくりに参加して下さいました。青年時代の私を息子のようにかわいがって下さった先生は、よく「お前のそばで死にたい」とおっしゃってくれたものでしたが、老齢になられて、ニューヨーク郊外のロングアイランドの故郷にいるたった一人の妹さんが、さびしいから帰国してくれということで帰られることになりました。

1928(昭和3)年、ランシングは「小原を育てたことで、私の日本での奉仕生活はむくわれた」という言葉を残して帰国の途についた。そしてその2年後の1930(昭和5)年、國芳は世界行脚の途中のニューヨーク滞在の際に、ランシングを訪問。その約半年後にランシングは亡くなった。ランシングは、國芳に大きな影響を与えた一人であった。

鹿児島時代のランシング(写真中央)
成城学園時代のランシング(写真中央)
留学生部

留学生部は、主に海外の若い世代を受け入れ、玉川学園で学んでもらうことを目的として、戦前、玉川学園に存在した部であった。創立当初から数名の生徒を海外から受け入れてはいたが、玉川学園創立から5年が経った1934(昭和9)年4月に留学生部を設置。本格的に留学生を受け入れる体制が整ったことで、以降、多くの生徒が海外から玉川学園へとやって来た。この年の5月21日には、当時の満洲国から留学生40余名を集めての入学式が、学園内の講堂で行われた。
この留学生部は「日本語および日本の風習を体験すると共に、労作学習を通じ特に人格的、文化的陶冶を受けること」を教育目標とし、満洲国籍の物の場合は満洲国初級中学校卒業以上か、同等以上の有資格者を対象に、1年間を修業年限としていた。そして修了した生徒は、日本国内の大学などに進学。その後は多くの者が自国に戻り、指導者として活躍することとなる。
留学生は玉川学園で日本語、日本史、地理、英語、数学など、日本人の生徒と共にほぼ変わらぬ内容を学んだ。また教室での授業だけでなく、師弟同行を柱とする塾での生活を送り、労作に重点を置いた教育を受けた。留学生は日本人生徒と共に玉川の丘で寝食を共にしながら学び、祈り、過ごした。小原國芳は、何よりも、母国の異なる相手のことを深く理解する機会にしたいとの思いがあった。
留学生部は1936(昭和11)年には79人の卒業生を輩出したが、1937(昭和12)年度以降は留学生部としての記録は残されていない。玉川学園における留学生部の活動期間は決して長いものではなかったが、そこには「アジアの外交は玉川の丘より」を提唱する國芳の想いが結実していたのではないだろうか。

礼拝堂

木々の濃い緑と空の青さの中にくっきりと浮かび上がる礼拝堂。赤い三角屋根と太陽の光で輝く白い外壁。その礼拝堂の歴史は古い。成り立ちは創立当初まで遡る。玉川学園創立の翌年、1930(昭和5)年6月、玉川学園で一番高い聖山の丘に礼拝堂の建設が開始された。礼拝堂の施工には高尾英輔があたり、資材運搬などで教職員や生徒も協力した。そして、礼拝堂が完成し、その年の10月13日に献堂式が行われた。
玉川学園の礼拝堂は、『本間俊平全集』(玉川学園出版部発行)の印税を基金に建立されたので、「本間記念礼拝堂」とも呼ばれた。そして、礼拝堂献堂式に招かれた本間俊平は、「礼拝堂がある限り神様は玉川学園を守り育てて下さる。自然を愛し、人を愛し、汗を流すことに喜びを感じる人になってほしい」と生徒たちに語りかけた。
礼拝、クリスマス礼拝、宗教講話、講演、音楽発表会、演劇発表会、古くは大学卒業式、通信教育部スクーリング開講式など、折に触れて児童、生徒、学生、教職員は礼拝堂を訪れ、神を敬う心、感謝の心を育んできた。卒業生の中には、この思い出深い礼拝堂で結婚式を挙げる者もいる。

礼拝堂に備えられたパイプオルガンは1931(昭和6)年8月に設置された。現在、演奏台は取り替えられ、もとの演奏台は教育博物館に保管されている。794本のパイプは、今も変わらぬ音色を響かせている。
現在の礼拝堂は竣工当初の1929(昭和4)年の姿とは若干変わっている。基本的な外観や内観を維持しながらも、外部廊下の変更、構造補強、外壁の張り替えなど、度重なる修繕を経て今日のような姿になっている。
2012(平成24)年5月、約半年間をかけた耐震補修工事が終了した。耐震のために2階から天井を支える2本の柱の補強と構造壁を増設し、床や天井にも補強を施した。また、屋内の補修には建築デザインの専門家である梅園真咲(高等部91年卒・旧姓藤村)の案で、身体に安全な漆喰が採用された。壁や天井に漆喰を塗る作業は、軍手をした手で直接仕上げる手法を取り入れ、さらに震災で一部破損したパイプオルガンの修理も行った。椅子は、買換えの案もあったが、全ての椅子を一端解体し補強をして、既存の形をできるだけ残すことにした。その4人掛けの椅子の中に、やや丈の低い椅子がある。これは1931(昭和6)年にパイプオルガンを購入したときの梱包資材から作られた椅子である。
毎年12月には、学友会主催のクリスマス礼拝が礼拝堂で開催されている。卒業生にとって、玉川の丘での思い出が蘇る心温まるひとときとなっている。

労作教育研究会
第1回労作教育修養会

玉川学園創立の4か月後の1929(昭和4)年8月15日、7日間の日程で第1回労作教育修養会が開催された。対象は先生方と青年団幹部。講習料および宿泊料は無料。参加者は遠く米国ユタ州からも含め、北は樺太から南は鹿児島、三府一六県より56人であった。現職教員だけでなく校長の職にある者も含まれていた。午前中は小原國芳をはじめとする学園教職員による「労作教育論」「綴方教育論」等の講演。午後は学園各所に分かれて労作体験。そして夕食後は会員相互による自由な語らいの時間。労作教育の理論と実践とを普及する願いを込めた日程が組まれていた。参加者全員が塾に宿泊し、朝は礼拝、午前は学習、午後は労作、夜は懇談会。労作としては運動場の改修、道路の修築、薪の採取、草刈、養蚕、電話の架設、工芸、風呂炊、図書の管理、家具工作、農芸等の種類があり、それぞれ分担して行われた。夏の日差しの強い炎天下に、額に汗しながら体験を通して学ぶ。学園側も教職員、生徒あげて遠来の参加者を迎え、共に収穫の多い集りとなった。会期中、世界一周を試みつつあった飛行船ツェッペリン伯号が学園上空を飛行した。
続いて師範学校上級生対象として同年8月23日から28日までの間にも労作教育修養会が実施された。こちらも講習料および宿泊料は無料。参加者は59人であった。
1931(昭和6)年の第3回開催から労作教育研究会と名称を変更。1940(昭和15)年の第13回は国民学校研究会という名称で開催された。翌年の第14回は、国民学校案による講習会を文部省以外で行うことが禁止されたため、内容を「国防と教育」ということに切り換えて実施しようとしたが、交通統制により中止となった。この労作教育研究会は、戦後に玉川で開催された教育研究会につながるものといえる。

ワ~ン

One Campus(ワンキャンパス)

幼稚園から大学・大学院、研究機関までが同じキャンパスにある玉川学園。この恵まれた環境を生かしてワンキャンパスだからこそできる体験が数多くある。町田市、横浜市、川崎市の3 市にまたがる、約61万m2の広大なキャンパス内に、園舎や校舎、体育館、グラウンド、研究所までが点在している。園児、児童、生徒、学生にとっては、キャンパス全域が学びの場であり、キャンパス内に集うすべての人々がそれぞれの専門分野で彼らの教育をサポートしている。
玉川学園の体育祭は幼稚園児から大学生までが参加して、記念グラウンドにおいて行われる。小学生児童が幼稚園児のお手本となって一緒に練習した成果を発表したり、児童、生徒、学生がバトンを繋いで走ったり、学園挙げての体育祭となっている。
総合学園の強みを生かした連携プログラムも豊富だ。12年生(高校3年生)が大学の授業を受講する高大連携科目履修制度や、大学生から環境について学ぶ児童の環境学習など、ワンキャンパスだからこそできる学校・学年を超えた教育活動が日々活発に行われている。また、未来型野菜工場においてLEDによるレタス栽培を見学したり、農学部の教授の指導の下で養蜂を体験したり、農学部の田んぼで田植えや稲刈りを経験したり、最先端の研究実験に参加したり、園児、児童、生徒、学生たちはキャンパスの中で数多くの貴重な体験をすることができ、知的好奇心を大きく刺激されている。
大学だけで考えても、8学部17学科がすべてワンキャンパス内にあるという点も大きな魅力だ。この利便性を生かして、学部・学科の垣根を超えた交流やコラボレーションも盛んに行われている。例えば複合領域研究という学際科目では、工学・農学・芸術を融合させた価値創出プロジェクトや、観光・工学を融合させた未来創生プロジェクトなどが進行中。いずれも学部の違う学生たちが力を合わせて研究に取り組んでいる。また、園児、児童、生徒が参加するサマースクールや探究学習研究会などに大学教員やゼミの学生たちが協力するケースも多く、学部・学科だけでなく学年や年齢の垣根も超えた柔軟な交流が展開されている。

体育祭

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