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玉川豆知識 No.219

玉川辞典①(ア行~カ行)

辞典という形式で、玉川学園の歴史を振り返ります。

ア~オ

愛吟集

朝会、食堂での会食、講堂での集会、礼拝、誕生会など、歌う機会の多い玉川学園の生活を支えてきた一つに『愛吟集』がある。小学生から大学生までが使える歌集は、世界でも珍しいのではないだろうか。
1932(昭和7)年、岡本敏明、真篠俊雄、梁田貞の指導の下に、塾生たちの労作で歌集が完成。68頁の小歌詞集だったが、式の歌、歌曲、唱歌、讃美歌、英語の歌など68曲を掲載。タイトルは『塾生愛吟集』で、非売品であった。1938(昭和13)年には110頁、157曲の歌集が刊行され、この時から名称が『愛吟集』となった。そして、20銭という定価がついたのもこの時からであった。
A6版のポケットサイズ版であったが、1942(昭和17)年に刊行された『愛吟集』(146頁、179曲)から、現在と同じ大きさのB6版になった。行事の歌、集いの歌、四季の歌、外国の歌、讃美歌などが掲載された『愛吟集』は、過去から現在まで、玉川学園の児童、生徒、学生「必携」のものとして愛用されている。なお、1955(昭和30)年には、A6版の『ポケット愛吟集』も刊行された。

アメリカ・カナダ公演

玉川大学演劇舞踊団によって、日本民話劇「ベッカンコおに」が海を渡ってカナダ・アメリカにて公演された。1986(昭和61)年、バンクーバーでの交通博EXPO'86における公演をはじめとして7都市の10会場にて17回の公演。
それから3年後の1989(平成元)年には玉川学園演劇舞踊団がアメリカ・カナダの8都市で23回の公演を行い、『ニューヨークタイムズ』などで絶賛された。国際交流基金の後援を得て行われたこの公演で、海外公演は1961(昭和36)年のメキシコ訪問以来7回目を数えた。
こうした海外公演は、学生たちの活動を通して日本文化を海外に紹介することに繋がっている。

アンデルセン像

『マッチ売りの少女』『人魚姫』『みにくいアヒルの子』『裸の王様』『赤い靴』『親指姫』など150ほどの童話を世に送り出しているアンデルセン。
1955(昭和30)年4月3日、玉川学園にてアンデルセン生誕150周年記念祭を開催。礼拝堂でのアンデルセン劇や合唱、日本舞踊の観賞、英語による『アンデルセンの一生』や『錫の兵隊』という映画の鑑賞をはじめ、音楽や美術等の授業参観、デンマーク体操の発表やデンマークに関する自由研究の見学などが行われた。
その記念祭が開催された後、生誕150周年記念として「アンデルセンと子どもたち」の像を制作することとなった。これは小原國芳の発案によるものであった。制作は本学の美術部の学生が担当。現在の像は再建されたもので、この2代目の像は、1993(平成5)年に彫刻家の松田芳雄によって制作された。4人の子供たちに語りかけるアンデルセンの座像は、経塚山グラウンドの傍らで、子供たちを優しく見守っているかのように座している。

一画多い「夢」の文字

玉川学園キャンパス内で見かける「夢」の文字は、“夕”の部分が一画多くなっている。この一画多い夢の文字に「大きな夢を持ってほしい」「一つでも多くの夢を持ってほしい」という小原國芳の願いを込めている。
國芳が生涯最も多く書いた書の一つが、この一画多い「夢」の文字。
「私の最も好きな言葉にVision(幻)という言葉と、Dream(夢)という言葉がある」と國芳は書き残している。

一日不作 一日不食

正門から見て右側の今も残る石垣には、黒御影石がはめ込まれており、そこに小原國芳の直筆で「一日不作、一日不食」の文字が刻まれている。この言葉は、玉川学園が創設された当時には、経塚山(三角点)の南西斜面、現在のPrimary小グラウンド(かつての小学部グラウンド)付近にあったひばりケ丘と呼ばれていた畑の中央に立てられていた太い木柱に書かれていた。それが1935(昭和10)年当時には石垣の門に木彫(文字は金色)で、そして1966年(昭和41)年正月、坂下門が造り直された際には現在の黒御影石にこの言葉が彫られた。
中国唐の時代の有名な禅僧、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉。「人は、労働することが一番大切なことであり、それができなければ食べることができない」と自らを律する言葉である。そして、勤労そのものの尊さを語るこの言葉は、労作教育に燃えてこの丘を切り拓いた創立者と、創立者とともにこの地を耕してきた先輩たちの合い言葉でもあった。

糸川英夫

小惑星探査機「はやぶさ」の探査対象となった小惑星「イトカワ」は、日本の宇宙開発・ロケット開発の父といわれた糸川英夫の名前にちなんで、そのように名付けられた。
1942(昭和17)年、玉川学園内に興亜工業大学(現在の千葉工業大学)を設置する際に、東京帝国大学の助教授で航空学の権威であった糸川を教員として招聘。終戦の年である1945(昭和20)年には、糸川研究所が疎開のために玉川学園内へ移転してきた。同年、玉川学園が開設した玉川工業専門学校の指導顧問に糸川が就任。
また糸川は、1947(昭和22)年に開設された玉川大学(文農学部)において、翌年度より「科学」の講義を担当。
1952(昭和27)年には、糸川の監修のもと、『ひこうき』(玉川こども百科シリーズ)が玉川大学出版部より刊行された。

印刷部
1929(昭和4)年印刷部完成

玉川学園が創立した1929(昭和4)年の7月に印刷部が誕生。印刷部の建物は、かつての塾食堂(後のりんどう食堂)、現在の「STREAM Hall 2019」のある場所に建てられた。小原國芳は、印刷業務を学校にはなくてはならない仕事として考えていた。
学内で組版・印刷ができる体制を整備。当時は印刷部と言っても、購買部、出版部と同様、現在のように職場に職員がいてすべてを行うといった体制ではなく、教職員、学生、生徒たちの労作によるところが大きかった。したがって印刷部等は教育の場、学習の場といった性格を持っていた。
印刷部門を内製化することは、学校組織としては非常に稀なこと。コストを削減するとともに、“本当に良いものをつくる”という玉川学園の理念があるからに他ならない。

歌に始まり歌に終わる

校舎から聞こえてくる歌声。児童、生徒、学生たちが愛用している『愛吟集』が歌声の輪を拡げていく。朝の挨拶、新しい友の歓迎など、日常の場面場面でさまざまな曲を歌っている。まさしく「歌に始まり、歌に終わる」のが玉川の一日。大学においても全学部で「音楽」の授業を必修とし、大学音楽祭では1年生全員がステージにあがりベートーヴェンの「第九」を歌う。このように玉川では、折に触れ、さまざまな曲を歌うことによって、何気ない日常の場面を深く感じることの大切さを学び、喜びや感動を歌で表現している。教育はもちろん、日々の生活の中に豊かな音楽が息づいている。

慧眼見真

旧大学8号館(かつての工学部校舎)の玄関向かって右側の黒御影石に彫られていたのが「慧眼見真」(えげんけんしん)。左側には「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」という言葉。
「慧眼見真」という言葉は、「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」(浄土三部経の一つ)の中の一句である「慧眼見真、能度彼岸」から選ばれたもの。“諸事物が空であることを見る知恵の眼、知恵に依って、真実の理を見抜き、ものを正しく観察する眼”という意味だと言われている。
小原國芳は著作『全人教育論』(玉川大学出版部発行)の中で、「慧眼見真」について、つぎのように述べている。「一、智慧、二、学問と!この生きた眼光紙背に徹するような慧智が崇いのだと思います。仏教では眼玉を五つに分けてあるようです。肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼と。「大無量寿経」の「慧眼見真」という名句を、特に、私どもの大学の工学部玄関の入口に、大きく彫刻したわけです。」
この言葉は、現在は「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」という言葉とともにSTREAM Hall 2019前に掲げられている。

演劇教育
学校劇『青い鳥』

演劇は人間の生き方に最も深くふれる芸術であり、それが教育の中に正しく生かされた場合には、人間陶冶の優れた方法となる。演劇創造による教育は、玉川では全人教育の一環として、早くからその実践と理論的探求がなされ、大きな足跡を残してきた。
小原國芳は、広島高等師範学校付属小学校の理事(教務主任)をしていた時に、そこで行われていた年2回の学芸会を学校劇と名付けた。國芳が『学校劇論』なる一書を刊行したのは1921(大正10)年頃であった。斎田喬らの実践を得て、國芳は日本における学校劇運動の先達としてその名を天下にとどろかせた。このように、大正中期から昭和初期にかけて「学校劇」は、燎原の火の如く日本中にひろがっていった。そして玉川学園の創立を機に演劇教育はさらに盛り上がりを見せ、『玉川学校劇集』は全国の小学校・中学校にひろがり、戦後の演劇教育に大きく貢献した。玉川においての学校劇は、さらに岡田陽によって推進され着実な成果をあげていった。
以前からあった「玉川文化隊」や「芸能隊」などと称せられていた体操や音楽の公演旅行隊に小学生・中学生による学校劇上演が加わり、1947(昭和22)年の福島県での巡回公演を皮切りに、年間2回か3回、地方の学校や公会堂、劇場などで公演を行った。そして、長い年月の間に全国各地を訪れ、公演を重ねていった。
玉川では、音楽とともに演劇や舞踊は日頃から生活の中に融け込み、行事などが行われる折にふれ、発表の場が設けられた。やがて玉川の演劇は広く社会にも開かれ、人間性を磨く場であり、人を楽しませる場であり、社会貢献の場でもあるといういくつもの顔を持つようになって発展を続けている。

大岡昇平

大岡昇平(おおおかしょうへい)は小説家、文芸評論家、フランス文学の翻訳家・研究者として活躍。1950(昭和25)年に発表した恋愛小説『武蔵野夫人』がベストセラーとなり、一躍注目されるようになった。1978(昭和53)年に刊行された『事件』は、映画やテレビドラマにもなり話題に。
 大岡と小原國芳との出会いは、1925(大正14)年12月、大岡が、國芳が当時教鞭をとっていた成城第二中学校の4年次に編入したことによる。その後、大岡は七年制成城高等学校高等科に進学し、1929(昭和4)年に第1回生として成城高等学校を卒業。その間、大岡は國芳が担当した「心理学」や「修身」の授業を受講した。
大岡の著作の中にも國芳や玉川学園のことが書かれている。例えば、『ながい旅』には、岡田中将の遺族を訪ねた話が出てくる。そこでは岡田中将の息子である岡田陽や、陽と結婚した國芳の次女である純子のこと、純子のことは幼少の頃から知っていたことなどが語られている。『少年 大岡昇平 ある自伝の試み』には、國芳が成城第二中学校を創り、それまでの軍国主義的な画一教育とは異なる「全人教育」を始めたこと、それによって大岡がクラスの中で目立つ存在になったことなどが記述されている。
大岡は『全人教育』第401号(1981(昭和56)年12月号)に、「恩師 小原先生」というタイトルで寄稿している。その中につぎのような一節がある。「こうして自由に自分の道を選び取るそれを教えて下さったのは、小原先生の全人教育だった、と思い当るのである。私は勝手に勉強していたが、自分の才の足りないところは知っているから、そこは一所懸命に勉強したつもりである。そういう気持ちに導いて下さったのは、小原先生の寛容のお蔭だった、と思うのである。」
多感な高校時代に國芳と巡り合った大岡、二人は恩師と生徒の関係で繋がっていたのである。

旧制成城高等学校第一回卒業生たちと一緒に
(前列左より4人目:小原國芳、後列右より2人目:大岡昇平)
大焚火

1929(昭和4)年の創立の年が終わり、新しい年を迎えようとしていた。その瞬間に、過ぎゆく年に感謝し、新しい年を迎えるお祝いをしようと、小原國芳をはじめ先生方、塾生が揃って大晦日の午後11時に聖山に集まった。そして、直径6メートル以上ある大焚火を囲んで、讃美歌を歌い、そして祈った。この大焚火はその後も毎年大晦日に行われ、1975(昭和50)年まで続いた。
國芳は『學園日記』第7號(1930(昭和5)年2月号)で、「昭和四年が昭和五年に移る瞬間、遠くの寺々から流れて來る除夜の百八の鐘の音、天にきらめく燦々たる星の群れ、焚火を中心に黙禱する人々、聖火に反映する感謝の涙の顏、神に祈る熱禱、高らかに歌ふ歌の聲、特に靈感に燃えて祈る少年たちの純眞な祈り!全く何といふ貴い光景でしたらう!」と述べている。

丘のコスモス

愛吟集にも掲載され、多くの人たちに親しまれている「丘のコスモス」は、1988(昭和63)年に本学小学部生が音楽の時間に作詞・作曲した曲。玉川大学農学部が世界で初めて開発した黄色いコスモス「イエローガーデン」が、玉川の丘での思い出とともに歌われている。そして「音楽」の授業をはじめ大学の通信教育のスクーリングなどで歌い継がれ、たくさんの人たちの心に残る曲となっている。
「丘のコスモス」が誕生したのが今から約40年前のこと。それ以前から音楽の授業で児童が作詞・作曲を行うことが玉川学園の伝統となっていた。そのような伝統の中から、「丘のコスモス」をはじめ、「未来へはばたけ」、「山の思い出」などの名曲が生まれ、時を経ても歌い継がれている。また、40数年前に当時小学部の4年生であった児童4名がつくった「ぼくの影」という曲は、2006(平成18)年に子供専用携帯電話のCM曲に起用され話題を集めた。

岡本敏明

玉川の丘では、「歌に始まり、歌に終わる」といわれるほど、「音楽」が学校生活の一部として溶け込んでいる。このような音楽的環境の基盤は、本学園創立期より音楽教育に邁進した岡本敏明(おかもととしあき)によって創り上げられた。
玉川学園の校歌は、岡本の作曲によるものである。既に田尾一一(たおかずいち:後の東京藝術大学音楽学部長)による力強く宗教的な香りの高い詞は完成していた。岡本は、1929(昭和4)年4月4日夕方に、ピアノもない中、1時間ほどで作曲した。彼は聖山の中腹に立ち、「我等が学び舎となるべき新しい校舎に呼びかけるようなつもり」で、与えられた歌詞を歌いだした。岡本は、当時の様子を「旋律は聖山の空気を振はして、何のこだはりもなく、たやすく流れ出た」「この歌に初めからこの曲がついて居つたような気がしてきました。これは詩と曲とが完全に溶け合つたためなのです」と、『学園日記』の創刊号(1929(昭和4)年6月号)に記している。
創立当初の頃の玉川にはピアノも音楽室もなく、今日と比べて必ずしも教育環境が十分でなかった。それでも岡本は、「子供たちが飛びついてうたえる歌、うたっている内に自然に合唱になる歌」を次々に作曲し、同時に子供たちに教えた。朝、昼、夕方の歌、歓迎の歌、別れの歌といった学校生活に密着して生まれた音楽は、数百曲以上ともいわれている。
岡本は数多くの学校の校歌も作った。さらに『どじょっこふなっこ』の作曲、輪唱曲『かえるの合唱』の訳詞なども手掛けている。

屋内温水プール

1972(昭和47)年、玉川学園創立40周年記念事業として、屋内50mプール(縦50m、横15m)が完成。7月1日、落成式が行われた。
屋内温水プールの完成当時、日本に50mの屋内プールは、千駄ヶ谷の東京体育館と代々木のオリンピックプールがある程度。しかも玉川学園のプールは温水。水中監視窓と水中音波伝達装置、水中照明装置、指導用移動式ブリッジ、プールフロアー(水深の変更が可能)など最新の設備を備えるとともに、災害時に飲料水として利用できる1,050t対応の浄水機の設置やプール管理のオートメーション化も図られていた。
日本水泳連盟の公認プールとして認められ、最新の設備を備えた屋内温水プールを視察に、さまざまな学校・施設などから見学者が訪れた。さらにミュンヘンオリンピック(1972年)金メダリストのジョン・ヘンケン、田口信教(鹿屋体育大学名誉教授)、ソウルオリンピック(1988年)金メダリストのジャネット・エバンス、鈴木大地(元スポーツ庁長官、元日本水泳連盟会長)も視察や練習のために来園。水泳世界選手権の最終選考会場としても使用された。

小原記念館
小原記念館展示室

礼拝堂のすぐ横、聖山の中腹に、創立者小原國芳夫妻が過ごした住居があった。学生や生徒が集い、國芳を囲んで、國芳の話に耳を傾けていた光景がよく見られた。やがて國芳が亡くなった後、この住居は小原記念館として保存され、創立者の息づかいを伝えている。
國芳はこの住居で、教職員や学生、生徒たちと語り合い、数多くの著作を生み出した。卒業生にとっても思い出深い建物である。
2016(平成28)年に小原記念館の大改築工事が始まり、2017年3月30日に竣工。4月1日より新しくなった小原記念館が開館された。「お客の間」は耐震改修工事を、その他の部分は展示室としての工事を実施。國芳夫妻が生活をしていた中央棟の部分は、1階が学友会事務室とホール、2階が展示室になっている。かつての「雷々亭」は談話室として使用されている。

小原國芳像

932(昭和7)年8月2日に二科会の彫刻部長であった藤川勇造の手によって小原國芳の胸像が造られ、1934(昭和9)年2月11日に除幕式が執り行われた。胸像は、聖山の東側、松や檜の間に、西の山々に向かって設置された。胸像の台に刻まれている文字は、玉川学園の校歌を作詞した田尾一一の筆によるもの。
しかし、戦後になって盗難に遭い、その後、1956(昭和31)年に小原國芳の胸像が再建されることになり、美術の教授であった山田貞実と大学美術部の学生たちによる3か月におよぶ大労作により胸像は造られた。新たに造られた國芳の胸像は、1957(昭和32)年2月28日に除幕式が行われ、この日から、以前の台座の上に再び國芳の胸像が置かれた。
再建された胸像は西方向ではなく南方向を望む位置に置かれた。それから約65年の月日が流れ、玉川学園創立100周年に向けた聖山整備事業に伴い、胸像は再び遥か彼方、丹沢や秩父の山々が見渡せる、西を向く方向に設置し直された。

おやじ当番

通学生とは異なり塾生にはいろいろな当番が割り当てられていた。例えば「校長当番」もその一つ。小原國芳が児童、生徒、学生、教職員から「おやじ」と呼ばれていたことから、「校長当番」は後に「おやじ当番」と呼びかえられた。また、「おばさま当番」というのもあった。國芳の奥様である小原信のことを、児童、生徒、学生、教職員たちは親しみを込めて「おばさま」と呼んでいた。「おばさま当番」は女子学生、女子生徒が担当。
おやじ当番が行うことは、朝、牛舎へ牛乳を取りに行くこと、國芳宅の各所の清掃および庭そうじ、色紙書きおよび講演先で販売する本や卒業証書へのサインのお手伝い、お客様へのお茶出しなどの接待、お客様の学内参観の案内など多岐にわたっていた。

音楽教育

「音楽」によって、玉川学園の精神的な基礎づくりを、というのが小原國芳の信念であり、期待であった。國芳著『私の音楽教育八十五年』に、國芳の音楽教育に対する期待が次のような言葉で示されている。「音楽は、すさんだ心をなごやかにし、暗い気持ちを明るくし、悲しみをなぐさめ、疲れをいやし、希望を与えてくれます。この音楽の持つ不思議な力を教育でも十分に利用したいのです」また、「音楽こそは、人と人の心を結ぶきずなとなるものと考えます。教育が、人と人との触れ合いの中にあることを考える時、立派な音楽なくしてマコトの教育はあり得ないとさえ考えます。どうぞ、世界に誇り得る教育が、文化が、民族が、出来上がる日のためにも、音楽の楽しみを、今日、今から大事にしていただくよう祈ります」と。
この國芳の期待を受けて、岡本敏明たちが、歌に始まり歌に終わる学園の音楽的環境を作り出していった。さらに牛込にあった成城小学校以来、國芳と志をともにしていたオルガンの真篠俊雄、声楽の梁田貞らによっても、玉川の音楽的雰囲気は形成されていった。一方、田尾一一、田中末広、北原白秋らによって多くの歌詞が作られ、学園の生活にマッチした数多くの歌が生まれた。そして、日々の生活の中で、誕生会、クリスマス会、入学式、卒業式といった行事において歌われた。やがて、児童、生徒、学生の合唱は、輪唱、2部合唱、3部合唱、そして混声4部合唱へと上達していった。
1932(昭和7)年に『愛吟集』が誕生し、歌う機会の多い玉川学園の「生活音楽」を支えてきた。

1936(昭和11)年第10回競演合唱祭で総合優勝
翌年、翌々年にも総合優勝
1936(昭和11)年の東北地方公演旅行
体操と音楽を主とした公演が各地で行われた

カ~コ

かえるの合唱

玉川学園によって広く知られるようになった歌に「かえるの合唱」がある。子供の頃に誰もが友だちと一緒に歌ったであろう、代表的な輪唱曲である。この歌はスイスの教育者ヴェルナー・チンメルマンが玉川学園に半年ほど滞在した折りに、岡本敏明に教えた歌が基となっている。その歌に岡本が日本の子供のために作詞をしたものが、「かえるの合唱」として知られるようになったのだ。岡本によれば、「かえるの合唱」はチンメルマン博士から教えてもらった歌の中で、最初に日本語の歌詞をつけたものであり、この経験から数多くの輪唱を日本に紹介したという。

學園日記

玉川学園創設の1929(昭和4)年6月25日に、機関誌『學園日記』が創刊された。玉川学園における教育、研究の実践および成果を記録し伝えることが目的。創刊号はA5判で全84ページ。創刊時の購読料金は、一部20銭、半年間購読が1円10銭、1年間購読が2円。創刊号には、玉川学園誕生に向けた小原國芳の決意や、玉川学園村へ移住してきたときの第一夜の様子をはじめ、「玉川モットー」や「校歌」の誕生に関する記述などが掲載されている。
國芳は「私学に身を投じた当初から、『出版』と『機関誌』は私学経営に不可欠と考え、実践してきました」と『教育一路』(小原國芳著/日本経済新聞社)で述べている。戦時中は中断したが戦後すぐにザラ紙で再刊。困難な時でも機関誌は國芳が求める「真(まこと)の教育」「本物の教育」を推進するための役割を常に担ってきたのである。
『學園日記』は、『全人』等に誌名を変えながらも玉川学園の歴史と共に歩み、現在も玉川学園の教育、研究の実践および成果を記録し伝えている。

学校劇
学校劇『新しい友達』

日本の「学校劇」の名付けの親、育ての親は小原國芳である。
『教育一路』(小原國芳著/玉川大学出版部発行)には、「学校劇」について、次のような記述がある。「学芸会は方々にありましたが、私の主張は、国語、文学、歴史、唱歌、舞踊、体操、図工などを一つに統合した総合芸術としての学校劇を考え、真善美と創造力を養う重要な教科にしようというもの。この呼びかけは、大正末から昭和の前期にかけて、燎原の火のように全国に広まることになりました。私が『学校劇論』なる一書を刊行したのは、大正十年ごろ。日本新劇の育ての親、小山内薫さんは、旅行中に拙著を読み、喜びのはがきを下さったことがありました。」
やがて総合芸術としての「学校劇」を誕生させた國芳のもとから二人の劇作家が誕生した。一人は児童劇作家で画家の斎田喬、もう一人は児童演劇の研究者である岡田陽。
のちに日本児童文化協会が主催する学校劇コンクールが開催され、優秀な作品には文部大臣賞が授与された。玉川学園の小学部も、1948(昭和23)年に『新しい友達』という学校劇で文部大臣賞を受賞した。

笠原淳

本学文学部芸術学科卒業の村田沙耶香が「コンビニ人間」という作品で第155回芥川賞を受賞したが、本学卒業生で初めて芥川賞を受賞したのは笠原淳(かさはらじゅん)である。笠原は玉川学園小学部を1948(昭和23)年に、玉川学園中学部を1951(昭和26)年にそれぞれ卒業。2003(平成15)年から2006(平成18)年までの間、法政大学文学部教授でもあった。2015(平成27)年に79歳で死去。
1969(昭和44)年に『漂泊の門出』で小説現代新人賞、1976(昭和51)年には『ウォークライ』で新潮新人賞を受賞。そして、1984(昭和59)年に『杢二の世界』で第90回芥川賞を受賞した。
1994(平成6)年に玉川学園のキャンパスを舞台にした『茶色い戦争』が新潮社から刊行されている。笠原が住んでいた玉川学園を舞台にした自伝的小説で、太平洋戦争の開戦の直前から終戦までの日々が、作者の体験をもとに綴られている。この作品には、当時の玉川学園のキャンパスの様子が具体的に描かれている。

カナダナナイモ校地

玉川学園創立50周年記念事業の柱の一つとして「国際教育の振興」が掲げられた。当時学長だった小原哲郎は、海外での国際教育を推進するための最初のステップとして、カナダ・ナナイモ市玉川学園、現在のカナダ法人玉川学園(通称:ナナイモ校地)を設立。カナダ西部のブリティッシュコロンビア州、ナナイモ市にある土地を購入した。購入した土地は、ナナイモ市の郊外。そこは、ホールデン湖の東端を含むなだらかな南斜面の牧草地で、面積は約10万坪(約32万平方メートル)、西に1,500メートル級の山々を臨み、まわりは杉の森に囲まれた自然環境であった。
1976(昭和51)年9月1日に、ナナイモ校地披露式を行う。式の中で、小原哲郎学長は、ナナイモ校地において教育研究活動を展開する目的をつぎのように語った。「第一はこの青空教場を通して、カナダと日本の間に心と心をつなぐ絆を作りたいと思います」「第二の目的は、玉川とナナイモの学生、生徒に真の国際教育を与えることです」「第三の考えは、私どもは皆様との触れ合いを通し、農学の実験を通して、この地域社会に貢献したいということです」
その後、ナナイモ校地では、さまざまな国際理解教育プログラムが実施され、玉川大学・玉川学園の学生・生徒の学修の場となっている。また、地元ナナイモを中心としたカナダ国内の教育機関などとの交流でも校地を使用。さらに、現地教育機関などの研修や会議等の場として施設の貸出しも行い、地域社会にも貢献している。

神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり

旧大学8号館(かつての工学部校舎)の玄関に向かって左側の黒御影石に彫られていたのが「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」という言葉。
大学8号館を主に使用していたのは工学部の学生。そのため、「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」の碑の設置には、「科学技術の進歩は、明と暗の両面を持つ。平和利用されれば人間社会を豊かにし、戦争に利用されれば多くの人間の命を奪う。この言葉には、“人間至上主義的・科学万能主義的な考え方や教育が、人の姿をした悪魔をつくっているのではないか。科学技術を学ぶ者も、人間を超越した存在を知り、神を畏怖する心を持った人でなくてはいけない”」との、小原國芳の強い願いが込められている。
この言葉は、現在は「慧眼見真」という言葉とともにSTREAM Hall 2019前に掲げられている。

咸宜園
1969年に玉川の丘に模築された咸宜園

咸宜園は、1817(文化14)年に、江戸時代の儒学者である廣瀬淡窓(1782年~1856年)が豊後国日田(現・大分県日田市)に創立した私塾。「咸宜」とは、「みなよろし」という意味で、身分を問わず、学を志す全ての人に開放された。それにより全国から延べ3,000人以上が集まり、ここで学んだと言われている。咸宜園では労作教育、師弟同行、個性尊重などの教育が行われた。
玉川教育と通じる廣瀬淡窓の教えを身を以って体得するべく、大学生の有志が咸宜園の模築を計画。大学の許可を得たうえで、大分県日田市に出向き、現地調査を行った。咸宜園の模築は、現在の場所の松林を切り拓き、地ならしをすることから始められ、約2か年の労作を経て、1969(昭和44)年7月8日に完成した。
模築後は、風雨により痛んだ箇所を修理しながら使用してきたが、築42年が経過した2011(平成23年)11月、現在の建築基準法に適合したかたちで建替工事を行った。建替えにあたり、外観は既存の咸宜園の姿を忠実に再現したが、現在の建築基準法では茅葺屋根が屋根材として認可されないため、現行法規に基づき茅葺屋根に似た色彩の瓦葺きに変更された。内部については、現在の利用に沿った間取りに若干変更されている。

寒稽古

玉川学園では、教育の一貫として武道(柔道・剣道)をいち早く導入、1967年(昭和42年)には男子の必修科目に。翌1968年(昭和43年)に第1回の寒稽古が行われた。その時の対象は中学部が1~3年生の男子全員、高等部が1、2年生の男子全員であった。「北風に向かって口笛を吹け」「困難なことに自分から立ち向かっていく人になれ」と小原國芳はよく言っていたが、まさに寒稽古はその言葉そのものを実現し、体験できるよい機会となっている。
寒稽古の種目は年により異なる。柔道、剣道、マラソンのほか、相撲、弓道、なぎなた、空手、バスケットボール、クロスカントリーなどが行われた年もある。

黄色いコスモス

黄色いコスモスは、玉川大学農学部の育種学研究室が30年以上の歳月をかけて世界で初めて開発したもので、「イエローガーデン」という名称で1987(昭和62)年に品種登録されている。品種登録が決まるとマスコミからも注目されて大評判となり、国営昭和記念公園に40,000株が植えられた。その後、さらにはっきりとした黄色のコスモスを開発。「イエローキャンパス」という品種名で、多くの人の目を楽しませている。
コスモス(cosmos)とは、一般的に、宇宙を秩序ある、調和のとれたシステムとみなす宇宙観を意味する。小原國芳は、著書『全人教育論』の中で、真・善・美・聖・健・富の6つの価値を創造することが教育の理想だとし、「この6つの文化価値が、秋の庭前に整然と花咲いとるコスモスCosmosの花のように、調和的に成長してほしいのです」と著した。ちなみに大学の文化祭は1967(昭和42)年からコスモス祭と呼ばれるようになった。そして黄色いコスモスの開発とともに、コスモスの花は教育の理想として例えられるだけでなく、玉川学園にとって大変身近な花になっている。

北原白秋

北原白秋といえば明治から昭和にかけて活躍し、「からたちの花」(作曲:山田耕筰)や「ペチカ」(作曲:山田耕筰)、「城ケ島の雨」(作曲:梁田貞)、「この道」(作曲:山田耕筰)などで知られる詩人・歌人・童謡作家。その一方で白秋は、数多くの校歌や応援歌の作詞も手がけていた。玉川学園体育祭で歌われる「玉川学園運動会歌」を作詞したのも白秋。1933(昭和8)年の玉川学園第4回運動会(現在の体育祭)で初めて歌われた。
白秋と玉川学園の結びつきは強く、小原國芳の教育哲学に共鳴した白秋は、当時國芳が校長をしていた成城学園に2人の子供を託した。1933(昭和8)年、國芳が成城学園の校長を辞して、玉川学園の教育に専念するようになると、2人の子供を玉川学園に転校させた。理想を掲げて新たな教育の場を作り上げた國芳。それまでの唱歌にはない感性豊かな童謡を発表するなど文芸の分野で新たな流れを作り出した白秋。この当時、國芳は「出版は私学経営に不可欠」と考え、『児童百科大辞典』や教育書を発行していたが、さらに女性向けの修養雑誌として1932(昭和7)年に『女性日本』を発刊。そして國芳は白秋に歌詞の創作を依頼。『女性日本』創刊号の巻頭には、白秋の手による「女性日本の歌」が掲載されている。以後、白秋は『女性日本』を創作の場として数多くの詩や随筆などを発表していくことになる。他にも白秋は歌人として、國芳の活動を題材に数々の和歌を残している。

きみたちの競争相手は無限大の大空、確固不動の大地

毎年、玉川学園の体育祭は、「きみたちの競争相手は無限大の大空、確固不動の大地、しっかり頑張りましょう!」と学園長の開会宣言で始まる。不変の、実に簡潔でダイナミックな訓示である。この言葉には、技や勝負ばかりに心を奪われるのではなく、自らが培ってきた身体と心を以って精一杯の力を発揮して、無限の可能性に挑んでほしいという思いが込められている。

旧制大学 文農学部

終戦を迎えた1945(昭和20)年8月15日、玉川学園は、幼稚園(1947(昭和22)年3月まで閉校)、初等部、中学校、女子高等学校、専門部(女子高等部を含む)、工業専門学校を設置していた。総合学園として理想的な一貫教育を望んでいた小原國芳は、さらに最高学府たる大学の設置を目指していた。そして1946(昭和21)年10月1日、玉川学園は大学令による玉川大学設立を申請。1947(昭和22)年2月24日に大学設置の認可を受け、同年5月20日に開校式を行った。
前年に開会された帝国議会において学校教育法が可決成立する見込みとなったこともあり、旧制大学令に基づく大学認可は玉川大学で終了。つまり玉川大学は旧制大学として、日本で最後(59番目)に認可された大学となった。

教育行脚
1969(昭和44)年愛媛県松山での講演

小原國芳は半世紀以上にわたり全国各地を教育行脚し、「教育立国」の夢を、そして「全人教育」の理想を語り、全国に新教育運動の火を点した。
訪問年月がわかる教育行脚の最初は、1920(大正9)年5月1日。時に小原國芳33歳。場所は福島師範学校附属小学校であった。行脚は戦中の一時期中断したが、1975(昭和50)年11月まで半世紀以上続いた。訪問地は全国津々浦々という言葉が正に当てはまるほど日本全国各地にわたっている。『全人教育』の身辺雑記などの記録によれば、996にもおよぶ市町村の訪問地名があがる。
講演の中心は「全人教育論」「教師論」「教育立国」など教育全般にわたり、実践の場である玉川学園についても熱き思いを込めて語った。それ故、話を聞かれた方々は小原國芳の名前とともに、玉川学園の名を記憶したことだろう。講演後には、著書や百科辞典などの販売も行った。
また、1930(昭和5)年10月28日には、初めての海外教育行脚のため春洋丸にて横浜港を出発。帰国は翌年6月3日。ハワイやカリフォルニア州にて数十回の講演。欧州では、海外における玉川教育のもっともよき理解者のひとりであるスイスのチンメルマン博士の世話で、チューリッヒ、ベルン、ウィーン、ミュンヘン、シュツットガルト、ベルリン、ハンブルグなどで講演。玉川教育についての講演は欧米に大きな反響を呼んだ。
最後の教育行脚は1975(昭和50)年11月19日、生誕の地鹿児島の鹿児島女子短期大学創立10周年記念式での記念講演。直前にビタミン注射をして臨んだ講演。時に小原國芳88歳であった。

教育研究会
第2回新生日本教育研究会

1945(昭和20)年8月、終戦を迎えた日本国民は敗戦の影響で先の見えない日々を過ごしていたが、小原國芳はいち早く教育立国を唱えて新生日本の進む道を示した。そして、國芳は、第1回の新生日本教育研究会を、終戦の年である1945(昭和20)年の12月1日に玉川学園礼拝堂で開催した。「他がやらぬから、やることに意味がある」と國芳は主張し、教育研究会を開催したのである。
第2回新生日本教育研究会は、1946(昭和21)年5月2日、3日、4日の3日間、玉川学園礼拝堂で開催された。武者小路実篤の「日本の行くへ」や小原國芳の「新日本教育の具体案」などの講演後、研究発表。つづいて、本学教員の発表及び公開授業。そして音楽、体操、舞踊練習。ラジオ体操はラジオ舞踊に変わっていた。最後に玉川の夕べとして、音楽演奏、劇、舞踊等が披露された。
1959(昭和34)年の玉川学園創立30周年から1979(昭和54)年の玉川学園創立50周年までの20年間に教育研究会に参会した人数は、約18,000名にも及ぶ。
また、1972(昭和47)年の第80回教育研究会の小学部の全校集会の場で、第1回小原賞の授賞式が行われた。
第90回が実施された後、教育研究会はしばらく開催されなかった。中断した理由は、この教育研究会の提唱者であった小原國芳の逝去、外部に向けての研究会よりも内部研修の充実をとの気運、加えて中学部校舎や小学部校舎および松陰橋建設に伴う環境の未整備などの諸問題があったからである。そして18年後の2003(平成15)年に第91回教育研究会が玉川の丘で開かれた。幼稚部、小学部、中学部、高等部の各部における公開授業、児童・生徒の発表、分科会、山極玉川大学文学部特任教授による教育講演会が行われた。
2005(平成17)年に第93回教育研究会が実施されたが、これが教育研究会の最後の開催となった。

教育大学(現職教員の研修制度)

小原國芳は、1922(大正11)年以降、神戸の文科大学講座や山梨県の富嶽夏季大学といった研修会を通して、現職教員の質の向上に寄与していた。さらに1932(昭和7)年1月10日、玉川教育研究所内に教育大学部を設置し、現職教員が研修できる機会を作った。
戦後になり、國芳は全国各地を教育行脚し、「教育立国」の夢を、そして「全人教育」の理想を語り、全国に新教育運動の火を点していった。その教育行脚を通して、國芳は教員の再教育の必要性を痛感した。そして、1946(昭和21)年に現職教員の再養成のための教育研究制度としての教育大学を開校。募集を開始した。指導する教員は旧制玉川大学、玉川工業専門学校の教授陣で組織した。
教育大学は1年のうち3か月を玉川で学習し、残り9か月を勤務地で教鞭をとりながら通信教育で学ぶというものであった。しかも3か月の本学での学習期間中は、学費一切、食費も含め本学から支給されていた。この教育大学構想は、敗戦に混迷していた教育者に希望を与えた。教育大学の開校は、我が国の教員養成史上、全く類例のない画期的な構想であり、制度であった。
その後本学は、1950(昭和25)年、通信教育制度発足と同時に通信教育部を開設。その時認可されたのは、玉川のほか、慶應義塾、中央、日本、日本女子、法政の5大学であった。さらに2008(平成20)年、教職大学院制度発足と同時に教職大学院を設置し、現職教員の資質向上の一役を担っている。

教育立国論

1945(昭和20)年8月、終戦を迎えた日本国民は敗戦の影響で先の見えない日々を過ごしていたが、小原國芳はいち早く教育立国を唱えて新生日本の進む道を示した。そして、國芳は、第1回の新生日本教育研究会を、終戦の年である1945(昭和20)年の12月1日に玉川学園礼拝堂で開催した。
さらに「教育立国」の夢と「全人教育」の理想を語り、1946(昭和21)年1月より全国を教育行脚。同年、『教育立国論』を出版。この年、米国教育使節団が教育改造案立案のために玉川学園を視察に訪れた。

経塚山(三角点)

幼稚部園舎と低学年校舎をつなぐ小高い丘は、古くから「経塚山」と呼ばれている。名前の由来は、昔仏の教えを守るため、経典を大切に保存しようと地中に埋めた場所である「経塚」からきている。
経塚山には子供たち用の遊具や茶室(中学部生の労作で完成)が設置され、経塚山はピクニックや散策、バーベキュー、茶室を利用したお茶会、登り棒や雲梯、滑り台といった遊具を使用した子供たちの活動など多目的に活用されていた。“アルペンスキーの父”として知られるハンネス・シュナイダーの像も置かれている。経塚山の南西斜面はひばりケ丘と呼ばれ、農学部の牧場があったため、小学部生たちが放牧中の牛の写生をしたりもした。
測量用の二等三角点が設置されていることから、経塚山は「三角点」とも呼ばれている。一般に三角点とは、測量の基準として、緯度や経度、標高などの位置が正確に計算されており、地図の作成や道路の建設などで使用。三角点は、一等から四等までの4種類に分類される。本学の経塚山三角点は二等三角点。一等から三等までの三角点のほとんどは明治時代に設置されたものである。
2008(平成20)年6月の国土地理院発行の地図によれば、聖山は106メートル、経塚山は103.5メートルで、経塚山は学内で2番目に標高が高いことになる。

共同溝
3年生の社会科の授業で共同溝を見学

キャンパスは電線の地下埋設化(共同溝)により、豊かな自然環境、美しい景観が保たれているだけではなく、風水害、雪害などで電線が切れる心配がなく、安全対策面においても大変優れている。その共同溝の長さは、1,860メートル。
この共同溝は1983(昭和58)年につくられた。当時は、電線の地下埋設化は大変珍しく、共同溝の設置は画期的なものであった。
共同溝では、主に学内への電気・水の供給と、ボイラーを用いた冷暖房の維持管理が行われている。電気・水や蒸気の供給は、学内のほぼ全域を網羅する地下道「共同溝」を通してなされており、園児・児童・生徒・学生・教職員等の安全に配慮され、電柱と電線のないキャンパスを実現している。
共同溝内は、夏は涼しく、冬は暖かい。場所によって異なるが、年間で平均温度が17度か18度となっている。そのため、一部、共同溝の空気の空調利用も行っている。

教養部

1961(昭和36)年まで、玉川大学は文学部(教育学科、英米文学科)と農学部(農学科)の2学部3学科体制で教育研究が展開されていた。1962(昭和37)年4月に工学部を開設。それとともに、全学部の1年生を学部から独立させて教養部所属とした。これは新入生の増加を契機に、さらに効率の良い教育を行うために1年次のみを教養部として独立。また、4年制ではあったが2年で修了する女子学生も多く、女子の2年修了希望者も教養部に含めて教育を行った。教養部では、一般教育や外国語、保健体育などの基礎教育を通して基礎学力の養成を図るとともに、玉川の教育理念の本質を理解させることを目的としていた。
また1年次には、知行合一をねらいとした行事教育が実践された。全学あげての体育祭をはじめ、音楽祭、親睦を深めるための小運動会やピクニックなどの行事が行われた。特に音楽祭でのベートーヴェン作曲の「交響曲第九番」の合唱は、教養部が主導的な立場で運営を担った。教養行事の実施も教養部の特色の一つであった。
こうして玉川大学においては、ただ科目を履修して単位を取得するということに留まらず、基礎学力の養成と、礼拝、労作の実践、さらには芸術教育、行事教育、教養行事への参加を通して人格形成を目指した教養部の指導体制には見るべきものがあり、その成果からも十分な存在意義があった。しかし、1970(昭和45)年8月に公布された大学設置基準の一部改正省令は、教養部の廃止を示唆するものであった。不本意ながら玉川大学もその改正にしたがい、教養部廃止の方向に舵を取った。そして、教養部で実践してきた内容、形態を各学部に移行することによって設置基準改正の趣旨を生かし、玉川独自の人間教育を目的とした教養部の精神を各学部の教育の中で展開することとした。教養部は1962(昭和37)年に誕生し、1970(昭和45)年度の終了をもって廃止となった。「教養部があったことで、学科の枠をこえて学生同士が知り合い、交流することができた」と卒業生の良き思い出として語られている。

ギリシャ公演

1972(昭和47)年8月10日から9月4日までの間、玉川学園舞踊団42人の一行は、野外劇場オデオン座での公演を皮切りにギリシャ各地にて、10回の公演を行った。それは、ギリシャ古代劇場と日本民俗芸能との調和への挑戦でもあった。
公演の演目は、「さくら」「黒田節」「津軽じょんがら節」「わらべ唄」「花笠おどり」「北海太鼓」「越後獅子」「連獅子」「阿波おどり」などの日本民俗舞踊集と、関矢幸雄作・振付の創作民族舞踊ともいうべき舞踊詩「山ふところ」であった。日本民俗舞踊集の振付は、坂東三津五郎、江崎司、関矢幸雄、黛節子、岡田純子、方勝といった玉川大学が誇る教授陣が担当した。
このギリシャ公演は、舞台公演の披露はもちろんのこと、学生との交歓やギリシャ文化に触れることも大きな目的であった。

金城哲夫

テレビ番組『ウルトラマン』は円谷プロダクションの制作で、当時、最高視聴率が40%を超える人気番組。番組の主人公ウルトラマンは宇宙の彼方から飛来し、地球を脅かす怪獣や宇宙人と戦うヒーロー。このウルトラマンの生みの親の一人が金城哲夫である。
玉川学園高等部に入学した金城は、小学生から大学生までが一緒に生活する学園内の塾に入る。金城は17歳のときに、まだ本土復帰されていない沖縄への慰問隊に参加。男子生徒9名、女子生徒8名、教諭2名(上原輝男、門脇朗示)で結成された玉川学園沖縄慰問隊で、その模様はNHKテレビのニュースでも紹介された。玉川学園高等部卒業後、金城は玉川大学文学部教育学科へと進学。そして金城は、高等部の時の担当教諭であり、大学時代の恩師である上原輝男の影響を受け、脚本制作に興味を持ち始める。
金城は大学を卒業後、一旦沖縄に帰り、映画『吉屋チルー物語』を製作。その頃、上原は、玉川学園高等部で円谷皐の担任をしたのをきっかけに、『ゴジラ』や『空の大怪獣ラドン』『モスラ』など大ヒット特撮映画を世に送り出した円谷英二から『竹取物語』の脚本化の依頼を受けていた(上原が1960年に書いた『燃ゆる恋草』を松竹が映画化)。円谷皐は円谷英二の次男で、後に円谷プロダクションの社長になる。同時期、再び上京した金城は上原を訪ねる。そして、上原は脚本家志望の金城を円谷英二に紹介。やがて金城は、『ゴジラ』など東宝特撮映画の脚本家である関沢新一より指導を受けることになり、脚本家としての道を歩み始める。
1962(昭和37)年、金城の脚本デビュー作『絆』が円谷英二の長男である円谷一の演出でテレビ化され、TBSで放送された。この頃の金城は、円谷一にとても気に入られており、二人は兄弟のように仲が良かったといわれている。その後も『近鉄金曜劇場/こんなに愛して』(東京放送)や『泣いてたまるか』シリーズの『翼あれば』(TBS)など、彼の脚本がテレビで放映される。
1963(昭和38)年、金城は特撮で有名だった円谷プロダクションに入社。そして、円谷英二監督のもと企画文芸部の主任として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』など、円谷プロ製作の特撮テレビ映画の企画・脚本を担当。円谷作品は爆発的にヒットし、怪獣ブームを引き起こす。金城は、担当したシリーズにおいて、特撮娯楽作品の枠を超えた名作と評価される作品を多く残した。

玉川学園沖縄慰問隊の一行(琉球政府前にて)、左端が金城
金田一春彦

1913(大正2)年、言語学者金田一京助の長男として東京で生まれる。1937(昭和12)年、東京帝国大学国文科を卒業。専攻は国語学。名古屋大学で助教授、東京外国語大学、上智大学で教授を歴任。東京芸術大学、ハワイ大学、在中国日本語研修センター(北京)、NHKアナウンサー養成所などで講師、玉川学園客員教授なども務め、日本ペンクラブ理事なども兼任。方言、アクセント、音韻史を専門とする言語学者で、日本の童謡にも深い関心をもつ。著書に、『日本語』『ことばの歳時記』など多数。なかでも教科書や辞書『現代新国語辞典』他の編纂で多くの人に親しまれた日本語研究の第一人者。1997(平成9)年文化功労者に選ばれる。
玉川学園の校歌は、玉川学園関係者以外からも高い評価を得ている。講談社が1982(昭和57)年に出版した『日本の唱歌』は一般的な唱歌に限定せず、寮歌や応援歌、校歌なども取り上げた唱歌集となっているが、この中で編者である金田一春彦が「あとがき」でつぎのように語っている。「誰でも、自分の学校の歌を愛します。と言って、寮歌・校歌を片っ端からあげることは出来ません。それで、かりにその範囲を、その学校の学生でない人でも知っていて、歌うことのある学校歌ということに限定しました。(中略)単に音楽的にすぐれているというならば、ここにあげた歌以上の歌もたくさんありそうです。たとえば編者の一人の好みで言うなら、玉川学園の校歌などは、日本一の校歌ではないかと思ったりいたします。」

久志高等学校

鹿児島県の西南端、川辺郡西南方村久志(現・南さつま市)に1948(昭和23)年、旧制玉川大学の付属高校として創設されたのが久志高等学校だ。当時は敗戦直後であり、社会や経済は戦後の混乱が続いており、高等学校教育も学制改革の影響から混迷の時期にあった。そのような折、小原國芳は教育立国を叫び、地域的にも経済的にも高等学校教育の機会に恵まれなかった川辺郡久志の地に、地元の青少年の教育救済をし、また、地元住民の自立心を育み、地域振興を図るため、高等学校の設立を思い立つ。
久志高等学校は、全日制と定時制の2部授業に加え、通学距離の遠い生徒を対象に定時制の授業(1952年に一時休校、実質上閉鎖)も行った。生徒たちは、村内からはもちろん、屋久島などの離島から、また宮崎県などの他県からも集まった。年齢も30歳を超える者から、その半分にも満たない中学新卒者、また、学歴も旧制中学卒、専門学校卒、軍籍にあった者、実業についていた者と多種多様であり、定時制のなかには現職の小学校教員なども含まれていた。
1963(昭和38)年には近隣の高等学校が閉鎖となったため、入学者が激増。これに伴い、枕崎、坊泊地区からの通学者のために、路線バスが増便運行されるようになった。また、奄美大島など遠方からの入学希望者も増加し、単車やバイクを利用した通学者も増え、60年代は入学者数が安定していた。また、玉川大学への進学希望者も増加した。
しかし、1970年代に入って、社会の高度経済成長とともに、県下の過疎化が次第に進んでいった。一方で、道路網が整備され、近隣には公立高校が増設されたことで、地域住民は公立高校への進学を志望するようになる。1979(昭和54)年には、生徒の確保が難しくなり、募集を停止。廃止に際し、在籍生徒24人は、よりよい教育環境で高等学校教育が受けられるよう、保護者の希望を汲み、玉川学園高等部への転入学を円満に完了した。
久志高等学校は、玉川学園の困難な財政をおして、廃校までの30年にわたって、900人を大きく超える卒業生を世に送り出した。そして、1979(昭和54)年7月31日付で鹿児島県より同校の廃止が認可された。

クリスマスキャロル

聖歌を歌いながら丘を巡るクリスマスキャロル隊。12月24日の深夜に聖山に集合し小原國芳学園長宅をスタートに学園内に住む先生方の家や丘の住宅地を巡り、玄関先で聖歌を歌う。その活動は、創立の年から始められた。最初は学園内で生活をしていた塾生たちによって行われた。戦後になると、塾生以外の学生も参加するようになった。長く丘に住んでいる人たちには、年末の風物詩として大変好評であった。しかし、國芳が亡くなった1977(昭和52)年は中止。そして、新たにこの地に引っ越してきた住民が増えたことにより、クリスマスキャロル隊の活動を良かれと思わない人も出てきた。そのため、翌1978(昭和53)年からこの活動を取りやめることとなった。
それに代わるかのように1983(昭和58)年からは正門の玉川池のところにクリスマスツリーが飾られ現在に至っている。また、近年、玉川学園の7年生(中学1年)から12年生(高校3年生)までで構成されているハンドベルクワイアが近隣のクリスマス行事で美しい音色を奏で、地域の人たちに喜ばれている。

クルッケンハウザー(シュテファン・クルッケンハウザー)

玉川学園と成城学園は、1963(昭和38)年2月に、オーストリア国立スキー教師養成所教授で“第二のシュナイダー”“近代オーストリア・スキーの父”と言われたクルッケンハウザーを招聘した。クルッケンハウザーは、オーストリア国内のスキー指導者を統一された指導方法で養成するスキー指導の第一人者でもあった。この招聘にあたっては、玉川学園、成城学園、日本スキー連盟が招聘委員会を組織し、準備、運営にあたった。同様に両学園が中心となって、日本のスキーの歴史を塗り替えたハンネス・シュナイダーを招聘してから33年後のことであった。
シュナイダーの招聘が日本のスキー史上における先駆的役割をはたしたとすれば、このクルッケンハウザー一行の招聘は日本のスキー技術の変革と統一という面で画期的な意義をもったと言えよう。
1963(昭和38)年2月11日、クルッケンハウザー一行が来日した。その来日に先立ち、オーストリアから招聘のスキー教師により、白馬山麓親ノ原スキー場にて中学部から大学までのスキー学校を開催。2月13日には、公式の歓迎式典に先だち、クルッケンハウザー一行が玉川学園を来訪。小学部グラウンドでの歓迎式典の中で、クルッケンハウザーに玉川大学名誉教授の称号が贈られた。さらにクルッケンハウザー一行が来園したことを記念して、経塚山(三角点)にてシュナイダー像の除幕式が行われた。
3月11日、小原國芳の働きかけにより、東宮御所にて、クルッケンハウザー一行の皇太子殿下拝謁の儀が実現。
玉川大学出版部では、クルッケンハウザーの招聘と共に、現代オーストリア・スキーの技術を紹介した『シー・ハイル』を刊行した、1962(昭和37)年11月のことであった。

クルッケンハウザー
皇太子殿下拝謁の儀が実現
興亜工業大学

興亜工業大学(予科3年、本科3年の旧制単科大学。学科は航空工学、冶金、工業経営の3学科、1学年定員160人)は、現在の千葉工業大学の前身として、1942(昭和17)年に玉川学園内に設立された。私立の工業単科大学としては、藤原工業大学(後の慶應義塾大学工学部)に次ぐ、国内で2番目に古い歴史を持つ。
もともとは小原國芳によって計画され、準備された大学であり、順調に進めば、玉川学園大学部が産声を上げるはずであった。しかし、時代は太平洋戦争の真っただ中にあり、設置認可の際に、「玉川塾工業大学」では受理できないと、退けられてしまう。文部省から「東亜」か「興亜」のいずれかの名称で申請するよう指示される。そこで、國芳は、東郷実、小西重直を代表者とする設立認可申請書を改めて提出することとなった。設置趣旨書の作成には、國芳のほか、政治評論家の徳富蘇峰、作家の武者小路実篤、キリスト教伝道者の本間俊平、哲学者で國芳の京都帝国大学時代の恩師である西田幾多郎、磁性物理学の世界的権威である本多光太郎らが参加したといわれている。
こうして、興亜工業大学は「興亜」という名前の通り、政府主導で国策的な意図を持って設立された。言い換えれば、単に高い技術を持った技術者や専門家を養成することを目的とするのではなく、国家中枢を担う人材の養成が求められたのだ。
興亜工業大学の施設は本学の校舎が用いられ、設備・施設が充実していたとは言いがたいものであったが、開校3年目の入学試験には、定員の約45倍にあたる7,200人の受験生が殺到した。官民あげての大きな期待が寄せられ、当時の若者たちの羨望を集めた大学であったことがうかがえる。
その後、1943(昭和18)年、國芳は興亜工業大学の理事・学監を辞任。太平洋戦争が終焉した1945(昭和20)年、文部省から「学校移転を希望する学校に、旧軍事施設や備品類をあっせんする」という通達があり、興亜工業大学は千葉県君津郡君津町(現・君津市)に移転し、翌1946(昭和21)年には、国策色の強い旧名称を廃止し、現在の大学名となっている「千葉工業大学」に改称した。開設からわずか3年10か月、こうして興亜工業大学の名前は消失した。
玉川の丘から興亜工業大学が去ったのは、設立からわずか2年たらずの1944(昭和19)年3月31日のことであった。時代に翻弄された、幻の「玉川塾工業大学」――そこには実にさまざまなドラマが秘められていたといえるだろう。

公演旅行

創立当初から体育や芸術に力を注いできた玉川学園。授業はもちろん、教室を離れた場所でも積極的に取り入れることを心がけていた。1936(昭和11)年2月に東京・九段の軍人会館(後の九段会館)で行われた玉川学園の学園祭で、生徒たちは体操や合唱を披露し、喝采を浴びることとなった。こうした雰囲気の中で、「この成果を地方でも公演できたら」という提案がなされ、玉川学園の公演旅行は実現に向けてスタートを切った。
第1回公演旅行は秋田県の大曲を起点に、十文字、金足、追分、本庄、西目、酒田、鶴岡、坂町、新発田を経て新潟を最終会場にして実施された。生徒は専門部や中学校、女子高等部、女学校などから約30人が参加。体操や合唱を披露し、各地で喝采を浴びた。
第2回以降の公演旅行は関西・九州地方、東海地方、関西地方、土浦・日立方面、広島・九州方面、宇都宮、吹田市・天王寺など、まさに全国を回るものであった。どの土地を訪れても学園の卒業生が待っており、そのことが生徒や教員の喜びにもつながっていた。
公演旅行で披露される演目も体操や音楽、寸劇だけにとどまらない。時には交響楽団の演奏会に出演することもあった。1938(昭和13)年10月の関西地方公演では、大阪における新交響楽団(現:NHK交響楽団)の第九交響曲演奏会に出演。ラジオでの合唱放送も行った。さらに1940(昭和15)年には当時の満洲国での満蒙慰問旅行にも生徒を引率し、公演を行っている。
こうしてこの公演旅行は1943(昭和18)年まで続けられたが、戦局の悪化と共に1944(昭和19)年以降は中止となってしまった。当時の公演旅行は戦時中ということもあり物資も乏しく、移動も汽車を乗り継いでのもので、まさに強行軍であった。それでも足かけ8年にわたりこの公演旅行が続けられたのは、玉川の丘で日々行われている音楽や体操のある学校生活を、日本全国の人々に見てもらいたかったから、そして披露する演目が各地で喝采を持って受け入れられたからに他ならない。

校歌

玉川学園校歌の作詞を担当したのは田尾一一(たおかずいち)。田尾は、校歌が誕生した当時の経緯について「小原先生のお宅の応接間兼食堂に小判型のテーブルがあって、それをとりまいて、毎夕新しい学校の構想をめぐって先生からお話があった。(中略)そういう雰囲気の中で、校歌が生まれた。私はその生きて動いているアイディアをそのままとらえるとでもいうような、そんな心もちでそれをまとめた」と語っている。
そして、田尾が手がけた歌詞にメロディを付けたのが、岡本敏明だった。玉川学園創立の年に東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)高等師範科を卒業したばかりだった岡本は、音楽の教員として採用される。そして1929(昭和4)年4月4日の玉川学園創立準備職員会の席上で、小原國芳から「8日の入学式に間に合わせたいので、できればこの会議中に作曲してほしい」と田尾による歌詞を渡され、ピアノも何もない松林の中を散策しながら一時間ぐらいで作曲したのだという。
こうして誕生した校歌は、まさに玉川の丘で理想の教育を始めようとする國芳の、新しい学校への想いがあらわされた一曲となった。一番の「空高く……」では、聖山の頂から相模平野を見下ろしての風景が表現された。また二番の「星あおき……」では、朝のうちは勉強と読書、午後は労作によってバランスの取れた人間教育を行うといった意図が読み取れる。そして三番の「神います……」ではキリスト教のみならず、日本の神にも通じるようになっている。多くの神話で神が天地をつくった。「この神の末裔がわれわれ人間である」と、田尾一一は後年語っている。
そしてこの校歌は、玉川学園関係者以外からも高い評価を得ている。講談社が1982(昭和57)年に出版した『日本の唱歌』は一般的な唱歌に限定せず、寮歌や応援歌、校歌なども取り上げた唱歌集となっているが、この中で編者である金田一春彦は「たとえば編者の一人の好みで言うなら、玉川学園の校歌などは、日本一の校歌ではないかと思ったりいたします」と、「あとがき」に寄せている。

高等女学校(女子部)・女子高等部

玉川学園創立から遅れること1年、1930(昭和5)年4月、学内では女学部と呼ぶ高等女学校が開校した。当時の学園案内によると、「健かなる身体、信念あり朗らかな心情、頭と手の両方ともに働くことの出来る女子を作って新時代に応じる方針」であると書かれている。
初年度の入学者は14人。出身地は鹿児島、北海道、樺太、長野、茨城とさまざまであった。校舎は新築の小学部の一棟が使用された。課程は5年制で、通常の学科のほかに女子に適した労作指導を行ったのが特徴的だ。例えば、菜園、花壇経営、裁縫(和洋)、手芸、編み物、炊事、美術工芸、印刷といった種類の労作が行われた。一方、声楽、ピアノ、華道、茶道、タイプライターなどの練習にも力を注いでいた。
生徒は学園内に設けられていた女子塾に寝起きしていた。生徒は午前6時に起床し、炊事当番は学習の合間をぬって、男子生徒も合わせた90人分の食事を用意し、後片付けや掃除も行った。午前中の学習を終えると、午後からは労作に従事した。
ほかにも学内の畑で野菜を育てたり、土木では1週間に1回セメントで飛び石を造ったり、寄宿舎付近の道路を修復したりした。また、図書館のカード整理や、男子学生の玉シャツや作業服の縫製、カーテン作りなども担っていた。また、新食堂ができたことを機に、炊事は女生徒の大きな労作の一つになった。料理の本や雑誌を参考に献立を考え、月末には通帳の整理や計算も行った。
開設当初の女学部はこのように、塾生活と日課、日々の労作と学習活動が一体になっていた。1932(昭和7)年には新しい校舎が完成。労作は次第に当番制と農芸部、土木部、工芸部、購買部、出版部、印刷部、機械部として独立。部員は責任をもって、自分の仕事に従事するようになる。次第に、内容も充実し、生産性も向上。生徒の知識、技能、気力、体力、探究的態度といった面からも著しい成果が表れるようになった。
1945(昭和20)年に終戦を迎えると、学制改革が実施され、高等女学校は新制の高等部に移行、1949(昭和24)年に廃止となった。

コスモス祭

現在コスモス祭として開催されている大学祭は、当初、大学文化祭という名称であった。初めての大学文化祭の開催は、1963(昭和38)年12月19日。当時、大学は前年に工学部(機械工学科、電子工学科、経営工学科)が開設され、文学部、農学部とあわせて3学部体制となっていた。農学部には収穫祭があり、この大学文化祭は文学部を中心に農学部、工学部の有志が参加して、文化系クラブが主催となって行われた。ただし、この年度の文科系のクラブはへき地教育研究会、地理研究会、聖書研究会、赤十字奉仕団、児童文化研究会、海外農業研究会、美術部、演劇研究会、ワンダーフォーゲル部、合唱団など10部ほどであった。研究発表の会場は文学部校舎(後の大学2号館)と礼拝堂、塾食堂(後のりんどう食堂)の3か所であった。なお、この年度の卒業生は140名で、現在と比べるとかなり小規模な大学祭であった。
初めての大学文化祭は学生の要望により開催されることとなった。「小原先生喜寿のお祝いに、大学生たちは活動の成果を知らせたかった」と、文化祭常任委員会の初代議長であった米山弘(当時文学部教育学科3年、元文学部教授)は語る。
大学文化祭は1967(昭和42)年からコスモス祭(コスモス・フェアー)と呼ばれるようになった。コスモスとは、ギリシャ語で整美、秩序、調和。またこの言葉は、宇宙の広がりや、秋に咲く可憐なコスモスの花の姿もイメージする。
コスモス祭は、やがて直属会(管弦楽団、合唱団、演劇部など)、体育会(スキー部、陸上競技部、水泳部など)、研究会(生物自然研究部、E.S.S.、自動車工学研究部など)、同好会(茶道部、写真部、ユースホステル部など)といった数多くのクラブの日頃の活動成果を発表する場として、11月上旬に開催された。
1997(平成9)年からは収穫祭と同じ日に実施されるようになり、課外活動の展示や発表が中心であったこれまでの内容に、各学部のゼミを中心とした展示が加わり、研究発表の場としての色彩がさらに強まった。

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