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玉川豆知識 No.220

玉川辞典②(サ行~タ行)

辞典という形式で、玉川学園の歴史を振り返ります。

サ~ソ

坂下門

正門を入り玉川池を過ぎて上り坂になる右側に石垣がある。坂下門と言われ、かつては道路を挟んだ左側にも石垣があった。右側の石垣には小原國芳の直筆で「一日不作、一日不食」の文字が、左側の石垣には「玉川学園」の文字が刻まれていた。
坂下門は玉川学園開校当時の正門。なお、左側にあった石垣は「大学教育棟 2014」を建設するために解体された。
坂下門の石垣は、石材110個を使用して積み上げられたもので、1966(昭和41)年の1月に竣工された。この石材は江戸城の石垣で、地下鉄工事でお堀浚渫の際に取り除かれ、現在の竹橋付近から引き上げられたものを宮内庁から無償で譲り受けたもの。また、その石材には、諸大名の舟印などを刻んだ刻印が20以上ある、と資料には残されている。

沢柳政太郎

澤柳政太郎(さわやなぎまさたろう)は、1888(明治21)年に帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学哲学科を卒業後、文部省に入る。文部官僚時代には、1908(明治41)年7月の次官退官までの約10年間、文部行政の中枢を担い、特に小学校令を改正して義務教育年限を4年から6年に延長するとともに、義務教育費の無償化を行った。1909(明治42)年12月に貴族院議員となり、1911(明治44)年には新設の東北帝国大学(現在の東北大学)総長に就任、1913(大正2)年には京都帝国大学(現在の京都大学)の総長となった。
退官後は民間教育家として多角的に活動し、1916(大正5)年には帝国教育会会長に就任。翌年の1917(大正6)年には新教育の実験校として東京市牛込区(現在の新宿区)に私立の成城尋常小学校を設立し校長となり、児童の自発性を重んじた教育を展開した。澤柳は、長田新(後に広島大学学長に就任)の推薦により、同校に小原國芳を広島から招聘した。そして、1921(大正10)年、國芳は自らの思索と成城小学校での実践をもとに「全人教育」を提唱。翌年には、小学校の卒業生が進学するための成城第二中学校が、國芳の尽力により開設された。1925(大正14)年に同校が現在の世田谷の地に移転し、成城学園となった。澤柳の指導の下、「一、個性尊重の教育、附・能率高い教育 二、自然と親しむ教育、附・剛健不撓の意志の教育 三、心情の教育、附・鑑賞の教育 四、科学的研究を基とする教育」を掲げ、その実践に努め、新教育運動に大きな影響を与えた。國芳の「全人教育論」は、「八大教育主張」の一つとして、成城学園小学校主事の時に発表されたものであった。
澤柳は、1926(大正15)年3月に成城高等学校校長、4月に大正大学学長にそれぞれ就任した。そして1927(昭和2)年6月にハワイ、トロント、リオネジャネイロにおける国際会議等に出席するため横浜を出港し、ロンドン、パリ、ジュネーブ、ベルリン、モスクワを歴訪した後、同年11月に帰国。帰国10日後に大陸性悪性猩紅熱のため入院し、同年12月24日に満62歳で死去。澤柳は、大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たした。

中央左が澤柳政太郎、中央右が小原國芳
1921(大正10)年
3市の分岐点

玉川学園のキャンパスは、東京都町田市と神奈川県横浜市青葉区、さらには神奈川県川崎市麻生区の三市にまたがっており、三市を分ける分岐点にそれを示す鋲が打ち込まれている。道路に埋め込まれたその鋲には、「町・横・川」の3文字が書かれていて、これは「町田市・横浜市・川崎市」の三市の分岐点を示している。ちなみに、大学8号館(かつての工学部校舎)があったところの前の道路が町田市と横浜市の境目で、松陰橋側が町田市、8号館があった側が横浜市。旧大学6号館(かつての農学部第Ⅰ校舎)があったところは川崎市。
このように玉川学園のキャンパスは三市にまたがっているが、本部が町田市にあるため、玉川大学および併設校は東京都の学校として位置づけられている。

死すとも教壇を離れず

1977(昭和52)年の夏、91歳の小原國芳はドクターストップを振り切って、点滴を受けながら通大の夏期スクーリングの授業に臨んでいた。そのことが、8月2日付の朝日新聞夕刊に「死すとも教壇を離れず」という見出しで掲載された。
國芳は、「私はタタミの上では死にたくない。どうか教壇で死なせてくれ」と言って講義を続けた。そして「日本の先生方の大部分は、上の学校に通るかどうか、試験にいい点を取るかどうかを真理の基準にしていますが、これは堕落じゃありませんか。皆さんはどうか真理の前には赤ん坊のように謙虚であって下さいねえ。たのんますぞ・・・・・」と、約800人の受講生に語りかけた。

シュヴァイツァー(アルベルト・シュヴァイツァー)
顕微鏡の寄贈に対する博士からの礼状

医師、神学者、哲学者、オルガニストであったアルベルト・シュヴァイツァーは、「密林の聖者」と呼ばれていた。シュヴァイツァーは、長い間の植民地で生活が厳しく病気に苦しんでいたアフリカのガボン共和国の実情を知り、医師になってガボンへ行く決心をする。シュヴァイツァーが初めてランバレネを訪れたのは1913(大正2)年のこと。現地での医療活動は、鶏小屋での診療で始まった。やがて、ナマコブリキの小さなバラックである診察小屋が完成。さらに少しずつこの建物の周りに患者を収容する竹小屋ができ、マラリア、フィラリア、寄生虫病、ハンセン病などの熱帯病患者をはじめ、内科・外科的治療を求める人たちが行列を作るようになった。杖をつきながら3日かけてやって来たり、何日も小舟を漕いでやって来る患者もいた。
そしてシュヴァイツァーは、50有余年にわたりアフリカの赤道直下に位置するガボン共和国のランバレネでの医療活動に生涯を捧げた。その功績により1952(昭和27)年にノーベル平和賞を受賞。その賞金の半分を使いシュヴァイツァー賞を制定し、2年に一度、平和活動に貢献したヨーロッパの人たちに賞金を贈呈。残り半分は、ランバレネのシュヴァイツァー病院の隔離病棟等の建設に充てた。1957(昭和32)年及び翌年には、核兵器への反対、核実験の中止をラジオ放送を通じて訴えた。
1963(昭和38)年、玉川学園は、学生や生徒たちからの提案で幼稚園から大学までの礼拝での献金を貯めて、当時世界最高級といわれた日本製の顕微鏡をシュヴァイツァー病院に贈呈。
その翌々年の1965(昭和40)年9月4日、シュヴァイツァーは90歳の生涯を閉じ、同地に埋葬された。

収穫祭

1949(昭和24)年、新制大学令による玉川大学の設置が認可され、文学部と農学部が開設された。そして、1952(昭和27)年に第1回の卒業生を世に送り出した。その頃、一年の収穫を喜び、感謝する、学生の祭典として収穫祭が誕生した。収穫祭は、キャンパス内の農場で、収穫物を豚汁にして食べたのが始まりと言われている。やがて収穫祭は第22回あたりから学部行事となり、豊かな稔りを祝う祭典であるとともに、日頃の研究成果の発表の場ともなっていった。
収穫祭の内容は、大きく3つの部門に分けられる。展示、祭事、生産物の販売の3つである。展示は、研究室や研究領域、農場による研究成果発表。祭事は農場太鼓、神輿、アトラクション、模擬店など。生産物の販売は、農場で収穫した野菜や花卉の販売、生産加工室によるハチミツ、ジャム、アイスクリームなどの販売である。
1997(平成9)年より、「収穫祭」は「コスモス祭」と合同で開催することとなった。さらに、各学部の学部展が加わり、文字通り全学あげての大学祭となり、現在まで継続されている。

宗教教育

人間であれば、だれでも心の深いところで神ないしは神的な何かに触れる。また、触れることがなければ、真の人間は育たない。その機会を与えること、これが玉川学園における宗教教育の基本理念である。その宗教観は、時代とともに少しずつ形を変えながら、終始一貫して玉川教育を支えてきた。
小原國芳は成城学園で教壇に立っていたころから、自らの手でつくり上げる「夢の学校」では、宗教教育を徹底させたいと考えてきた。明治維新前の寺子屋教育の第一信条は「神第一、仏第一」であったが、1899(明治32)年、文部省により宗教教育が禁止されると、教育の場から“神仏を尊ぶ心”までもが消え去ってしまった。國芳はそれを常々、遺憾に思っていたのである。
國芳がキリスト教と出合ったのは、1905年(明治38年)。鹿児島師範学校1年生のときであった。國芳は鹿児島市内で伝道をしていた女性宣教師ランシングを通じてキリスト教を知り、それが生涯をかけた宗教教育の基盤となった。
ただ、誤解のないように付記するが、玉川学園はいわゆるミッションスクールではない。特定の宗教団体が学校運営をしているわけでも、特定の宗教の布教活動を目的としているわけでもない。教育の根本に宗教心の育成を掲げているが、宗教のための教育ではなく、教育のための宗教なのである。それを端的に示したのが國芳の言葉(『玉川教育』1963年版)だ。

人間生活の中では、芸術にせよ、道徳にせよ、学問にせよ、ないしは健康にせよ、経済にせよ、政治にせよ、一切の根底に宗教が存在しとるのです。否、宗教はそれらの原動力として、一切を照し、浄め、力づけ、深め、高めてくれるのです。然るに、この崇い人間生命の根源力を否定したり、無用視したり、甚だしきは排斥する人が居ります。全く恐しいことです。

自由研究

玉川学園の「自由研究」は、小原國芳が提唱した“自学自律”を具現化した教育であると言える。玉川学園では、労作の中で各自が創意工夫をし、試行錯誤をしつつ主体的に取り組んでいくことを、小学部・中学部・高等部で開校以来大切に実施している。
自由研究の意義は、作品の完成ではなく、その過程にある。度重なる困難な状況を前に試行錯誤を繰り返しながら、為すことによって学ぶことで一歩一歩前進する。そして自らの力を磨き、辛抱強く取り組むことによって、やがて完成の時を迎える。その経験が、これからの人生に大きな影響を与えていくことになるだろう。國芳は次のように述べている。

ヴァイオリンの製作

与えられた知識よりも自ら掴んだ知識が尊い。教え込む教師は下の下である。学ばせることのできる教師でありたい。暗記や詰込みよりも、発明、工夫の力に生命がある。分量よりも創意力である。カントは、「汝等、われより哲学を学ぶべきにあらず、哲学することを学べ」と、キビシく諭した。
ホントの学習法とは何か。燃える情熱と、ツルハシを鍛えることと、掘り方を工夫させることだと断言する。
大に考えさせ、学ばせ、工夫させ、夢を夢みさせてほしい。
「百聞は一見に如かず」という。しかも「百見は一労作に如かず」、大に試みさせ、労作させ、体得させてほしい。
近年、「生きる力」を育てることが重要視されているが、まさしく自由研究は「生きる力」を身につけることであると言える。

12の教育信条

創立以来「全人教育」を教育理念の中心として、人間形成には真・善・美・聖・健・富の6つの価値を調和的に創造することを教育の理想としてきた玉川学園。その目指すところをよりわかりやすく説明しているのが、12の教育信条である。
現在の12の教育信条は、「全人教育」「個性尊重」「自学自律」「能率高き教育」「学的根拠に立てる教育」「自然の尊重」「師弟間の温情」「労作教育」「反対の合一」「第二里行者と人生の開拓者」「24時間の教育」「国際教育」である。
この教育信条が最初に文章として掲載されたのは1930(昭和5)年の『玉川塾の教育』においてである。当初は現在のような12項目ではなく、「塾教育」「国士養成」「労作教育」「第二里を行く人」「能率高き教育」「個性尊重の教育」「自学自律の教育」「全人教養」「自然尊重の教育」の9項目であった。時代の要請から「国士養成」というその当時を思わせる文言も入っていた。
戦後間もない1947(昭和22)年の「旧制玉川大学要覧」では、「全人教育と個性尊重」「自学と労作教育」「生産教育」「大自然と塾教育」の4項目に刷新され、新しい時代に合わせた教育信条を掲げた。1955(昭和30)年頃から信条が12項目となり、取り上げられる文言もある程度固まってきた。

塾教育

玉川学園創設にあたって、塾教育は大きな目的の一つであった。1948(昭和23)年発行の小原國芳著『玉川塾の教育』で、國芳は次のように述べている。「私は、何だか、教育というものは八時以前と三時以後にホンモノがあるような気がします。(中略)塾教育は実に、心から心への教育即ち人格から人格への教育です。言い換ると、之は内面からの教育です。かかる教育を受けたものの社会は互に理解を深くし、同情を厚くすることが容易だと思います。故に塾教育こそホントの社会改造の道だとも首肯されます。」
1929(昭和4)年4月8日の玉川学園開校式の翌日から塾生活が開始された。先生方と塾生は、日の出とともに起床し、聖山に集まって、祈り、体操し、讃美歌を歌った。創立まもない頃の塾の名称は、家塾ということもあり、小原塾、泉塾、浜田塾、青野塾、山西塾、中野塾、森塾のように先生方の名前を付したものが多かった。このように師弟同行のもと塾教育は行われていった。
前述の『玉川塾の教育』によれば、家元を離れて学内の宿泊施設で生活する生徒や児童を塾生と呼んでいたが、その塾生には3種類の形態があった。先生方の家に2、3名ずつ分宿し、家族として掃除、風呂焚き、買い物、子守りなどをする「学僕」、先生の家に7、8名が一緒に生活する「塾生」、一人で独立して生活する「寮生」で、その3種類を総称して「塾生」としていた。そして、学僕と塾生と寮生は、ある時期に順繰りに交替していた。
1932(昭和7)年頃になると、教員宅にそれぞれ分かれて生活していた塾生は、全員が男子塾、女子塾というように一つの建物に集まり生活を共にするようになった。そして、食事の時や集会の場面で、塾生みんなで歌う機会が多くなっていった。そこで、良い歌を集めた歌集がほしいということになり、デンマークの家庭で愛用されていたものに倣って歌集を作ることになった。そして『塾生愛吟集』が誕生した。
塾生は、太鼓櫓の大太鼓の音で起床。そして聖山に集まり国旗を掲げ、そして輪になってお祈りをし、讃美歌を歌い、体操を行う。もちろん小原國芳園長も同行。体操が終わると塾食堂へ移動。愛吟集を手にしながら何曲か歌い、食前のお祈りをして「いただきます」の声とともに朝食。食後は園長の食堂訓話。そして塾生の一日が始まる。初期の玉川学園では、午前中は学習、昼食後はそれぞれが労作で汗を流した。塾食堂での夕食後は合唱練習等が行われた。このような生活が毎日繰り返えされた。
玉川学園創立以来、最初の35年間は小学生から大学生までが一緒に塾生活を送っていた。やがて、中学部生と高等部生専用の塾舎が建てられ、大学も男子塾(暁峰塾、梁山塾)と女子塾(龍胆塾、海棠塾、桔梗塾)といった大学塾として独立した。
やがて学生たちを取り巻く社会情勢や学生の要望の変化などにより、中学部(青雲塾)、高等部(明倫塾)、大学の塾は1987(昭和62)年を最後に閉塾となった。

シュナイダー(ハンネス・シュナイダー)

玉川学園では、伝統的にスキー教育を重んじてきた。玉川学園とスキーの結びつきを振り返る際に忘れてはならないのが、ハンネス・シュナイダーの存在だ。シュナイダーは、1890年代にヨーロッパ・アルプス地方で始まったスキーの黎明期に、世界のスキー普及に偉大な足跡を残した人物である。
小原國芳がシュナイダーの存在を知ったのは、生徒の一人が言った何気ないひと言がきっかけだった。1930(昭和5)年の正月、子供たちを連れてスキー場を訪れた國芳は、「どうせ習うなら、世界で一番スキーのうまい人に教わりたい」という生徒の言葉に心動かされる。國芳が「それは誰なのか」と生徒に問い直すと、こんな答えが返ってきた。「先生、知らないんですか? オーストリアのハンネス・シュナイダーですよ」
どんなことでも、一流のものを子供たちに触れさせることに意義を感じていた國芳は、即座に招聘を決め、正確な宛先もわからないまま、「オーストリア サン・アントン」に電報を打つ。謝礼は1万円。当時の1万円は現在の価値にして1千万円以上と高額であったため、國芳は頭を抱えながらも資金繰りに奔走。さまざまな人から借金を重ね、1万円を何とか工面し、シュナイダーの来日を実現させた。

1930(昭和5)年3月に来日したシュナイダーは、本学と成城学園の生徒に対し、池の平で講習会を行った。当時を振り返って國芳は「山のような借金が出来ましたが、生徒たちが『世界一』を迎えた喜びにひたっている姿に、私は救われました」(『教育一路』)と語っている。また國芳は、シュナイダーの「真の精神を体得しさえすれば、百の方法は自ら生まれ来る」という考えに本学の学風と「面白いほどの共通点」を見いだした。
シュナイダーは1930(昭和5)年に来日した際に、スキー連盟の要請も受け、各地で講習会や講演会を開催。その素晴らしい技術を披露し、観衆を驚嘆させた。シュナイダーは日本に初めてスチール・エッジを持ち込んだ人物であり、以来、日本のアルペン・スキーは一変し、アールベルク一辺倒となった。現在でも野沢温泉には、シュナイダーが真一文字に滑降した急斜面に「シュナイダー・スロープ」の名前が残されている。シュナイダーがもたらした技術は、その後発展をつづけ、日本のスキーは飛躍的に進化。独自の文化と世界と闘える強さを持つ、日本のスキーが形づくられていった。
1990(平成2)年にはシュナイダーの生誕100年、来日60周年を記念して、玉川学園および成城学園、各スキー団体などが中心となり、ハンネス・シュナイダー祭が行われた。現在でも、本学のスキー学校では、シュナイダーにちなんで、練習の始まりと終わりに皆で集まり、ストックを高く掲げ「シー ハイル(ドイツ語で、スキー万歳!の意)」の掛け声を交わすことが恒例となっている。

シュナイダー像

玉川学園キャンパスにある経塚山(三角点)の山頂には、ハンネス・シュナイダーの像が建てられており、アルペンスキーの父と玉川学園との絆を今に伝えている。1963(昭和38)年2月13日に“第二のシュナイダー”、あるいは“オーストリア・スキーの父”と言われたシュテファン・クルッケンハウザー一行が来園したことを記念して、経塚山(三角点)にてシュナイダー像の除幕式が行われた。
このシュナイダー像を制作したのは、当時の美術部の学生たち。その後、1982(昭和57)年に、彫刻家の松田芳雄によって、白セメント製からプラスティック製の像に取り替えられた。

シュプランガー(エドワート・シュプランガー)
1937(昭和12)年 玉川学園駅前にて

1936(昭和11)年11月9日、一人のドイツ人が横浜港に降り立った。彼の名は、エドワート・シュプランガー。20世紀ドイツを代表する教育学者であり、心理学者、哲学者である。日独の交換教授として来日したシュプランガーは、1937(昭和12)年10月16日に神戸港から帰国の途につくまで、80近くの大学や研究所に足を運び、講義や講演を行った。その中の一つに玉川学園も含まれている。
近代から現代における教育学は、ドイツにおいて萌芽し、その確立に向けて研究が行われた経緯がある。特に、20世紀のドイツ教育学の相貌を規定したのがヴィルヘルム・ディルタイであり、彼の提唱する精神科学的教育学の流れを汲むのが、直接の弟子であるシュプランガーだった。この精神科学的教育学は、20世紀初頭の日本においても大きな影響力を持つに至る。シュプランガーの著した『文化と教育』は玉川大学出版部から発行されているが、現代においても教育学における重要なテキストの一つとなっているのである。
シュプランガーが玉川学園の門をくぐったのは1937(昭和12)年3月のことだった。この訪問以来、シュプランガーと玉川学園の間には緊密な関係が生まれた。シュプランガーの代表的著作である『文化と教育』『教育者の道』『生まれながらの教育者』は、いずれも玉川大学出版部が発行している。また『玉川学園三十年史』の出版に際しても祝文を贈ってくれただけでなく、オットー・フリードリッヒ・ボルノーと玉川学園を引き合わせてもくれた。
ちなみにシュプランガーはその幅広い研究活動の中で、早い時期から「郷土科」の教育的価値について述べている。郷土科とはドイツの初等教育における地域の特性を生かした全体教授という総合学習形態である。豊かな自然の中で全人教育を行う玉川学園は、シュプランガーが思い描く教育の理想像にも近かったのであろう。

松陰橋

玉川学園のキャンパスの真ん中を小田急線が走っている。キャンパス内を鉄道が走っているのは、日本全国を見渡してもとても珍しいこと。そして、小田急線を挟んだ二つの丘を繋ぐ橋として松陰橋が建設された。松陰橋の名前の由来は吉田松陰である。玉川塾からスタートした玉川学園。その建学の精神を後世に伝えるために、私塾の生みの親でもある吉田松陰にちなんで命名したと言われている。
現在の松陰橋は二代目で、初代は玉川学園が設立された1929(昭和4)年11月14日に竣工され、渡初式が行われた。初代の松陰橋は幅が狭く、とても車が通れるとは思えなかった。しかし、実際にはその松陰橋の上を車が通ったことがあったそうである。

現在の松陰橋は1988(昭和63)年4月8日に竣工し、渡初式が行われた。4月というのに雪が降る中での渡初式となった。大型車両がすれ違え、歩道も両側に配置された大きな橋に生まれ変わり、自然環境を壊さないようにとの配慮から45度で斜めに架けられた。それにより現在の正門から続く道と当時の工学部校舎へ向かう道とが直線で結ばれた。橋の長さは62m、幅は14m、重量は1,600t。工事は小田急線の終電から始発までの限られた時間に行われたため2年の歳月を費やした。渡初式の際にこんな笑い話があった。渡初式の前に積もった雪の上に点々と足跡が。「大変です、先生より先に橋を渡った者がいます。」学長の小原哲郎にそのような報告が入った。なんとその者はキャンパス内に棲むタヌキであった。

松下村塾
1966(昭和41)年に模築された松下村塾

松下村塾は、江戸末期の1842(天保13)年に幕末の志士として知られる吉田松陰(1830年~1859年)の叔父玉木文之進が長州萩城下東郊松本村(現・山口県萩市)に開設した私塾。子供時代にここで学んだ松陰が1856(安政3)年から主宰となってこれを引き継ぎ、塾生に「勉強はただ知識を得るためのものではなく、それを社会に役立てなくてはならない」と、生きた学問の重要性を説いた。それに感銘した優秀な人材が集まり、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など明治維新に活躍した多くの逸材を輩出。2015(平成27)年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産の文化遺産に登録された。
その松下村塾の模築を行うことになる。経緯は次の通り。1957(昭和32)年の通信教育部の夏期スクーリングにおいて、萩出身の高井泉農学部教授から「2年後は玉川学園創立30周年、吉田松陰没後100年を迎える」といった話があった。それを聞き知った山口県出身の学生たちから学園内に松下村塾の模築を造りたいという要望が出る。学校側はそれを許可し、建設予定地として経塚山(三角点)の雑木林裏手の場所を指定。8月28日には松永文部大臣のスクーリング視察にあわせて地鎮祭が行われた。そして、学生たちは草刈り等の労作を開始。しかし、限られた期間しか労作を行えないため、建設予定地は1年後には草刈り前の状態に戻ってしまう。それを繰り返すうちに、いつしか「松下村塾」の模築の構想は立ち消えになってしまった。
1966(昭和41)年、大学塾の舎監であった沖本陽一郎農学部教授より、「小原國芳先生が松下村塾の模築の建設を希望されている」と塾生に対して話があった。それを受け、塾生2名と工芸部職員2名が萩の松下村塾を訪問し、約1週間かけて建物の採寸等を行う。そして、いよいよ模築のための工事が始まった。建設される場所は聖山の中腹。塾生が中心となって、整地や資材運搬を行った。一部に通学生が加わっていたかもしれない。大工仕事等は工芸部職員が担当。同年の夏から着工して10月末に完成。11月3日にお披露目となった。なお、この時に使用した材木は萩周辺のものとのこと。
模築後、風雨により痛んだ箇所を修理して使用してきたが、築46年が経過した2011(平成23年)11月から、現在の建築基準法に適合したかたちで建替工事を行った。建替えにあたり、外観は既存の松下村塾の姿を忠実に再現したが、内部については天井を少し高くするなど、現在の利用に沿った間取りに若干変更されている。

植林

現在の玉川学園キャンパスは、木々多き緑豊かなキャンパスとして知られているが、創立当時の玉川の丘は、必ずしもそうとは言い難い状況であった。土木、建築、農業、園芸、飼育、木工、印刷、出版などとともに労作教育の一つとして創立期から植林が行われ、それによって今日の緑豊かなキャンパスが作られてきた。
「植林とは山に木を植えるほかに心へ木を植える」(『全人』第22号)と小原國芳は考えた。駅前から続く通学路のサクラの古木、旧けやき食堂、旧りんどう食堂周辺のケヤキの大木、K-12経塚校舎(かつての小学部校舎)玄関前の三本のヒマラヤスギは、いずれも創立期の学生や職員によって植えられたものだ。
生徒たちは植林を行うために、下草を刈り、穴を掘り、土や木を運搬し、木の植え付けをする労作に汗を流した。この労作の取組が評価され、1950(昭和25)年9月14日、玉川学園高等部が高等学校植林コンクールにおいて、全国第3位ならびに東京都第1位に入賞した。
当時、中学部、高等部、大学別に入学記念の植樹も行われていた。

新工業教育

小原國芳は、学問と技術の両方が備わっている人間を育成したいと考えていた。1939(昭和14)年、川崎にある日本火工株式会社(現在の日本冶金工業株式会社)と提携し、学校での教育と工場(日本火工川崎工場)での実習を数か月ごとに交代で行う、「学」と「術」の両立を図る新工業教育が玉川の丘で実施された。
日本の工業界が必要としている学問と技術の両方を兼ね備えた人材を育成するというもので、当時としては大胆な教育計画であった。その教育は、労作教育であり、体得の教育であり、知行合一の教育であり、理論と実際の融合の教育であり、心身一如の教育であり、そして学問と技術の一致を図る教育であった。
玉川学園はこの計画を実行するにあたり、参加生徒の募集を積極的に展開し、新計画実施のための体制整備を意欲的に行った。募集の文面に「自活しながら勉強せんとする少年たちのために」とあるように、この教育計画の対象の主体は給費生であった。給費生の通称は五部生。当時、玉川の丘では、通学生を一部生、塾生を二部生というように呼んでいた。
工場実習を行う生徒たちの一日は、午前5時半の起床から始まる。週番の声で起床し、屋外に出て、宮城(きゅうじょう)を遙拝(ようはい)し、讃美歌を歌い、体操を行う。その後、工場へ行き、そこで朝食。そして作業服に着替えて工場での仕事に従事する。仕事が終わると風呂に入り、宿舎に戻る。午後7時から8時半までは自習時間。こうして一日が終わる。
本学学生の実習期間中にたまたま工場を視察に来られた東久邇宮殿下が、生徒のまじめな作業態度をご覧になり、是非玉川学園を視察したいということになった。そして、1940(昭和15)年10月24日に、東久邇宮殿下が玉川学園にお越しになられた。
新工業教育としての産学協同の教育計画は4年半続いたが、戦争という大きな壁の前にはどうすることもできず、残念な思いの中、終結することとなった。しかし、当時としては大胆な教育計画であり、新教育の歴史の中に残る教育実践であった。

スキー学校

玉川学園では、毎年、スキー学校を実施している。初めてスキー学校が開催されたのが1959(昭和34)年。それから66年、今年も5年生のスキー学校が1月上旬に、7年生(中学1年生)のスキー学校が2月上旬にそれぞれ開催。
初めてスキー学校開催の約30年前、「同じ習うなら、世界で一番スキーのうまい人に教わりたい」という生徒の一言から、玉川学園のスキーの歴史がスタートした。1930(昭和5)年のこと。その年、当時“スキーの神様”と呼ばれていたハンネス・シュナイダーを招聘し、初のスキー教室を開いた。
玉川学園のスキー学校では、練習の始まりと終わりに皆で集まり、シュナイダーにちなんで、ストックを高く掲げ「シーハイル(ドイツ語で「スキー万歳!」の意)」の掛け声を交わすことが今でも恒例となっている。

相撲の土俵

玉川学園と日本の国技である相撲との関係は、今から90年前に遡る。1935(昭和10)年5月29日、相撲部の土俵開きに横綱玉錦、男女ノ川以下30余名の力士が来園。幼稚部の園児、小学部の児童たちは、土俵入り、角逐(相撲の取り組み)、弓取りを近隣の人たちとともに見学。
1964(昭和39)年2月10日の午後、前年の秋場所で敢闘賞を獲得した君錦関をはじめ7名の力士が中学部生徒会の招待で来園。学園体育館での大相撲大会に参加。相撲教習所指導員である元大岩山関から相撲の精神などについての説明を聞いたのち、まわしをしめた体育部員を中心とした生徒たちが力士に挑む。生徒たちは、本物の力士と行司さんのもとで相撲をとるのは初めてのことであった。
1970(昭和45)年2月11日には、小学部、中学部の相撲大会が開催され、鶴ヶ嶺のほか、錦洋や福ノ花など井筒部屋と出羽海部屋の関取衆が玉川の丘を訪れた。力士たちが自ら運動場の隅に土俵をこしらえてくれて、いよいよ相撲大会がスタート。高等部生や父母、近隣の人たちが見守る中、小学部、中学部の児童、生徒が土俵の上で力士に挑戦。本物に触れる素晴らしい機会となった。
全校体育の種目に相撲があり、その相撲で使用していた土俵が冬季になると凍ってしまうことから、相撲場を新たにつくることが計画された。そしてどうせつくるのなら本格的な土俵をつくろうということになり、当時中学部で技術科の授業を担当していた内野勘一教諭が設計を行う。そして1978(昭和53)年4月22日、前年の合宿労作以来9か月にわたる中学部生の労作によって、校舎(当時の中学部校舎)前の道をはさんだ向かい側の丘の斜面に相撲の土俵が完成。太い4本柱に支えられた屋根付きの本格的な土俵であった。
土俵開き当日は、時津風部屋あげての協力で、時津風親方はじめ、粂川親方、関取では蔵間、豊山、双ツ竜、大潮、尾形、谷風、そして行事の伊三郎、それに呼び出しなど総勢30名がお祝いに来てくれた。土俵開きは小原哲郎学園長と時津風親方の挨拶でスタート。つづいて、化粧まわしを付けた関取衆と中学部生たちが記念写真。この後、祝い餅をついて、小学部、中学部、高等部、大学の児童、生徒、学生たちが入れかわり立ちかわり力士たちに稽古をつけてもらう。さらに相撲太鼓打ち分け、サーカスのピエロ役のような初切り相撲、相撲甚句などを楽しく観た後、最後は力士全員による取り組み。取り組みの後は中学部の塾食堂にて、チャンコ鍋を囲んでの楽しいひとときを過ごした。
その年の中学部生の夏休み合宿労作では、土俵に雨が吹き込まないように屋形の四方に幅二間の廂を取りつけることを計画。そして、屋根張りや雨樋等は専門家に依頼して計画を実行。翌年2月11日の建国記念日までに完成し、時津風部屋の力士を再度招き相撲大会を実施した。
それから約30年が経過し、中学部校舎の移転などで使用頻度が減るとともに、老朽化が進んだことから、惜しまれつつ土俵は取り壊しとなった。

聖山横穴墓群
中学部生徒による3号横穴墓の発掘調査

町田市は約23,000年前の旧石器時代から近代までの遺跡が約1,000か所もある歴史の町。そして玉川学園のキャンパス内にも本部台遺跡、清水台遺跡など8つの遺跡があり、昔の人たちの暮らしぶりを垣間見ることができる。大体育館を見下ろす聖山の南側斜面でも、1,400年前に生存していた人々が眠る横穴墓群が5基発掘された。聖山横穴墓群で、8つの遺跡のうち、唯一保存整備されている。
聖山横穴墓群の1号横穴墓の発掘は1955(昭和30)年のこと。当時、中学部と高等部の自由研究の生徒と教員が発掘を行った。さらに1972(昭和47)年に中学部の考古学の部員が、1号横穴墓から約9m左に小さな穴を発見。これが3号横穴墓。1992(平成4)年には教育博物館が主体となり、専門家も加わっての発掘作業が行われた。中学部や高等部の考古学部の部員も参加し、6日間の発掘作業で、聖山横穴墓群の全貌が明らかとなった。
聖山横穴墓群は教材としても大変貴重なものなので、礼拝堂に向って左手の道のところに聖山横穴墓群の標柱を設け、聖山横穴墓群全体と各横穴墓の説明版を設置。さらに1号横穴墓、2号横穴墓、3号横穴墓は羨門に扉をつけて外から内部を見ることができるように、4号横穴墓は標柱を立ててその場所がわかるようにした。5号横穴墓は美しい敷石を見られるように、井戸のようなコンクリートの施設を設置してある。

『全人』(玉川学園機関誌)

玉川学園創立は1929(昭和4)年。この年の6月25日に、機関誌『學園日記』が創刊された。玉川学園における教育、研究の実践および成果を記録し伝えることが目的。『學園日記』は1932(昭和7)年2月発行の第31号までその名称であったが、3月号からは、労作教育を重視する学園の建学の精神から『學園日記 勞作教育研究』と誌名が変更され、第32号が発行された。1933(昭和8)年12月の第53号まで発刊された。その後、半年間休刊し、第54号は休号となった。1934(昭和9)年6月発行の第55号から第86号までは『敎育日本』と改称され、機関誌発行は引き継がれていった。
1932(昭和7)年5月に『女性日本』が創刊され、『敎育日本』と『女性日本』の二誌を合体して、1939(昭和14)年1月に『全人』第73号を発刊。『全人』は戦時中の1944(昭和19)年6月に第137号を発行した後、用紙統制で紙の入手ができず休刊となった。
復刊第1号の刊行は、戦後の1946(昭和21)年1月。誌名は『教育問題研究 全人』(第1号)。翌月と翌々月は『玉川教育研究 全人』(第1号、第2号)として刊行。1946(昭和21)年4月からは『教育問題研究 全人』という誌名に戻り、同年8月まで、第1号から第4号までを発行。1946(昭和21)年9月からは『新教育研究 全人』に改称。1947(昭和22)年3月まで、第1号から第7号までを発行。1947(昭和22)年4月から1949(昭和24)年3月までは『全人教育』という誌名で、第1号から第20号までを刊行した。1949(昭和24)年4月より再び『全人』の名称で玉川学園機関誌が発行となった。
誌名は、1949(昭和24)年4月発行の第1号から1959(昭和34)年12月発行の第124号までは『全人』、1960(昭和35)年1月発行の第125号から2001(平成13)年3月発行の第633号までは『全人教育』、2001(平成13)年4月発行の第634号から現在までは『全人』である。
『全人』の判型は創刊以来一時期をのぞき、72年間A5判だったが、2001(平成13)年4月号『全人』第634号でB5判に、2007(平成19)年5月号の第706号からA4判にリニューアルした。
『全人』の本文にカラーページが登場したのは1999(平成11年)4月号の『全人教育』第610号。オールカラーになったのは2013(平成25)年5月号の『全人』第772号からである。
『全人』は、創刊誌を継続刊行している雑誌としては日本で108番目に古い雑誌(『出版ニュース』2007年統計による)。一私学の機関誌がこれほど長きにわたり出版を守り抜いたのは大変に希有である。
今なお継続刊行されている機関誌『全人』は、困難な時でも「真(まこと)の教育」「本物の教育」を推進するための役割を常に担ってきた。

全人教育

「教育の内容には人間文化の全部を盛らねばなりませぬ。故に、教育は絶対に全人教育でなければなりませぬ。全人教育とは完全人格即ち調和ある人格の意味です」
小原國芳著『全人教育論』の冒頭にこのような一文が記されている。國芳は、従来の日本の教育には人間教養が欠けているとし、全人教育によって偏重した教育を正道に戻し、真実の人間性を伸ばそうと考えた。特に従来の教育に欠けていた道徳教育、芸術教育、宗教教育、労作教育などを重視した。
國芳は、人間形成には真、善、美、聖、健、富の6つの価値を調和的に創造することが必要であるとし、それは学問、道徳、芸術、宗教、健康、生活の6方面の人間文化を、豊かに形成することと考えた。また、真・善・美・聖を「絶対価値」とし、健・富を「手段価値」と位置づけた。そして、この6つの価値を有した人間、6つの価値を統合した人間を、國芳は「全人」と呼んだ。國芳はそのことを『全人教育論』の中でつぎのように記している。

人間文化には六方面があると思います。すなわち、学問、道徳、芸術、宗教、身体、生活の六方面。学問の理想は真であり、道徳の理想は善であり、芸術の理想は美であり、宗教の理想は聖であり、身体の理想は健であり、生活の理想は富であります。教育の理想はすなわち、真、善、美、聖、健、富の六つの価値を創造することだと思います。

その教育の理想を実現するために、全人教育、個性尊重、自学自律、能率高き教育、学的根拠に立てる教育、自然の尊重、師弟間の温情、労作教育、反対の合一、第二里行者と人生の開拓者、24時間の教育、国際教育といった12の教育信条を掲げて、玉川学園は総合学園として一貫した教育研究活動を実践している。さらに実践にあたって、「人生の最も苦しい いやな 辛い 損な場面を 真っ先きに 微笑を以って担当せよ」という玉川モットーを掲げている。
全人教育が誕生したのは、1921(大正10)年。8月1日から8日まで、東京高等師範学校(現・筑波大学)の講堂で、大日本学術協会が主催して八大教育主張講演会が開催された。この講演会での最終日である8月8日に、当時34歳だった國芳が主張したのが「全人教育」である。「全人教育」の提唱は、「真の人間教育」の提唱でもあった。

造形教育研究会

美術教育の研究をさらに深め、今後のあり方を探究することを目的に、1961(昭和36)年に第1回の造形教育に関する研究会が開催された。この研究会は、玉川学園小学部、中学部、高等部の美術教育の現場において、大学教員も指導者として参加して行われた。第1回の研究会には、北は青森・岩手、南は九州といったように日本全国から約200人の参加者が玉川の丘に集った。
研究会の内容は、例えば第2回では、1日目の午前中は小学部・中学部・高等部の学習参観、午後は小原國芳学長・学園長の「美術教育論」及び山田貞実玉川大学教授の「現代の美術教育は如何にあるべきか」の講演。2日目の午前中は幼稚部、小学部、中学部別の新しい教材技法の研究発表、午後は実技研究。実技研究は、楽器(ヴァイオリンの作り方)、陶芸、染色・織物、木彫・塗装法の4グループに分かれて実施。
研究会の名称は、第1回は「玉川学園造形教育実技講習会」、第2回以降は「玉川学園造形教育研究会」となった。
研究会は毎年行われたが、1966(昭和41)年の第6回より玉川学園教育研究会と同時に開催することとなった。そして、1968(昭和43)年の第8回を最後に、玉川学園造形教育研究会は玉川学園教育研究会に吸収された。

タ~ト

体育祭
1975(昭和50)年の体育祭

「われわれの競争相手は無限大の大空、確乎不動の大地、しっかり頑張りましょう」の学園長の開会の言葉で始まる体育祭。玉川学園創立の1929(昭和4)年から開催された。
その第1回は運動会と称し、参加者は玉川学園の児童・生徒に加え、岡上青年訓練所の生徒、町田・鶴川・柿生・生田・田奈・忠生等の小学校の児童、そして青年団の人たちであった。プログラムは次の通りであった。午前の部は、百米競走、砲丸投げ、障害物競走、四百米競走、小学部五十米競走、八百米リレー、ハードル競走、小学部二百米競走、俵奪い、走り高跳び、百足競走、柿取り、円盤投げ、クロスカウントリーレース、職員リレー、走り幅跳び、小学部リレー、千五百米競走、玉川ボール、岡上青年訓練所の教練、近郷郡部(町田・鶴川・柿生・生田・田奈・忠生等)小学校および青年団の人たちの入場式。午後の部は、青年団の人たちの百米競走、走り高跳び、マラソン、塾生のピラミットビルディング体操。
1946(昭和21)年の第18回体育祭あたりから入場門の制作が開始されたが、1987(昭和62)年の第59回で終了した。
1932(昭和7)年の第3回体育祭から行進が行われるようになった。行進は、昼食後に基本的に全員参加で行われた。その後も継続的に実施されたが、全学部の規模が大きくなり、全体練習の時間の確保が難しくなったことから、1980(昭和55)年の創立50周年記念体育祭(第52回)をもって終了となった。
1929(昭和4)年の第1回から行われていたマラソンは、2007(平成19)年の第79回体育祭を最後に終了となった。マラソン開始当時は、玉川学園~南大谷から町田第1小学校~町田高校~玉川学園というコースだった。その後コースは多少変わったが、1975(昭和50)年頃まで学外に出るコースで行われていた。やがて学外の道路交通事情により、学内を周回するコースへと変化した。
第1回大会から実施されていた職員リレーは1933(昭和8)年の第4回から職員各部リレーという種目名称で行われた。1954(昭和29)年の第26回体育祭では、職員年齢別リレーとして、翌年の第27回からは各部対抗リレーとして実施された。しかし、平成になると、怪我をする人が増えたことから、1992(平成4)年の第64回体育祭を最後に行わないこととなった。
オレロップ体育アカデミーのエリートチームは、第61回、第74回、第78回の体育祭に参加した。そのずっと以前の、1932(昭和7)年の第3回体育祭に、ニルス・ブックによりポール・ヒルデブラントが派遣され、彼の指導で合同体操が行われた。その伝統が今なお徒手体操や棍棒体操、旗体操などのマスゲームに継承されている。また、その43年後の1975(昭和50)年の第47回体育祭には、オレロップ国民高等体操学校のモンテンセン校長と体操チーム35人が参加した。
創立の年から現在まで継続して行われている体育祭。終戦の年にも体育祭(運動会)を開催。終戦を迎え敗戦の衝撃を受けて、先の見えない日々を過ごしていた日本国民。再開した学校でもさまざまな制約が課され、体育の授業では行進や武道が禁止された。そのような状況の中、これではいけないと、小原國芳が運動会の開催を思い立ち、開催が実現した。

第九

「玉川学園出演」と正式に記録された初の「第九」合唱は、1936(昭和11)年5月28日、日比谷公会堂で開催された「オリンピック蹴球選手送別音楽会」においてのこと。大日本合唱連盟の一員として、玉川学園が成城学園合唱団とともにステージに立った。指揮は貴志康一、演奏は新交響楽団(後の日本交響楽団、現在のNHK交響楽団)。
本格的に玉川学園の生徒が舞台に立ったのは、その翌年、1937(昭和12)年5月。新交響楽団の指揮者として来日したローゼンシュトックのベートーヴェンチクルス最終日を飾る「第九交響曲」に、東京高等音楽学院(後の国立音楽学校、現在の国立音楽大学)とともに玉川学園が出演した。
小原國芳にとって生徒たちに「第九」を歌わせることは、「世界の名曲を歌えた喜び、舞台に立てた喜び」を持たせることであり、それ自身「大きな教育」であった。翌1938(昭和13)年の「第九」合唱にも東京高等音楽学院生とともに玉川学園生が出演。合唱団約300人のうち、本学の中学部生および女学部生が約250人であった。以後、毎年のように新交響楽団との演奏会は続き、年末の「第九」合唱は恒例になっていった。
1935(昭和10)年から1955(昭和30)年代にかけては、玉川学園は合唱出演の依頼を受けて、新交響楽団と共演していた。1937(昭和12)年からはドイツの著名な指揮者ローゼンシュトックより、優しさの中にも厳しい指導を受け、ドイツ語の発音も徹底的に教わった。同年5月5日の「第九」はローゼンシュトックの指揮で日比谷公会堂にて行われ、午後8時55分から9時30分にかけて東京放送にて第4楽章が中継放送された。
合唱、オーケストラ、指揮等を玉川学園の教員、学生・生徒、卒業生だけで行った第九交響曲の公演は、1962(昭和37)年12月16日のこと。玉川学園音楽祭で、場所は文京公会堂。1959(昭和34)年、「第九」を演奏するためにわずか10数人の有志たちによって始められ年を追うごとに人数を増やしていった玉川大学のオーケストラ(玉川大学管弦楽団)が第4楽章を演奏し、教員である谷本智希が指揮を担当し、独唱は学生と卒業生。合唱は、大学生と高等部生1,500人。
1967(昭和42)年12月の東京文化会館での玉川学園音楽祭は高等部3年生と大学生による「第九」の合唱であったが、翌年より大学1年生のみの合唱となった。
玉川大学管弦楽団が「第九」全楽章を初めて演奏したのは、1969(昭和44)年2月9日のことだった。場所は本学の礼拝堂。そして同年12月、玉川大学管弦楽団は、東京文化会館で「第九」全楽章を演奏した。
その後「第九」を演奏する音楽祭は、1960(昭和35)年、1962(昭和37)年、1963(昭和38)年は文京公会堂、1961(昭和36)年は東京厚生年金会館、1964(昭和39)年から1969(昭和44)年までは東京文化会館で行われた。1968(昭和43)年からは、「音楽」を大学1年生の必修科目とし、毎年音楽祭を開催して第九演奏・合唱を披露している。音楽祭は、1970(昭和45)年から1987(昭和62)年までは立正佼成会普門館で開催。1988(昭和63)年は昭和天皇の重篤の関係で学内の大体育館で、翌1989(平成元)年は玉川学園創立60周年記念音楽祭として日本武道館で行われた。1990(平成2)年から2011(平成23)年までは再び立正佼成会普門館、2012(平成24)年から現在までは、コロナ感染拡大での休止や玉川学園大体育館での開催、玉川学園創立90周年および95周年記念「玉川の集い」での横浜アリーナでの開催を除けば、パシフィコ横浜にて開催されている。
1980(昭和55)年には「玉川学園創立50周年記念第九演奏会」(新宿文化センター大ホール)と「玉川学園創立50周年記念音楽祭」(立正佼成会普門館)が開催された。そして翌年から、「音楽祭」のほかに「第九演奏会」が行われるようになった。「第九演奏会」は厚木市文化会館、東京厚生年金会館、東急文化村オーチャードホール、1992(平成4)年からはサントリーホールで開催された。2014年12月7日に開催された演奏会が、最後の「第九演奏会」となった。

大学音楽祭
第九演奏会
大グラウンド

東西127m、南北83mの大グラウンド。スタンドのあるグラウンドとして完成したのは、玉川学園創立の翌々年である1931(昭和6)年。当初はただ単に「グラウンド」と呼ばれていたが、1957(昭和32)年に小学部グラウンド(現在のPrimary小グラウンド)が完成したことに伴って、名称が「大グラウンド」となった。
1964(昭和39)年にはグラウンドの拡張工事を実施。1990(平成2)年には改修工事が行われ、グラウンド面は嵩上げされ、その下に雨水用の調整池と地下駐車場が設置された。また、大グラウンドの付帯設備としては、演示台と倉庫、120人収容可能なスタンド、高さ10mの防球ネット(2015年にはさらに高いネットに)が建設され、散水スプリンクラー6台が設けられた。地下駐車場は76台の車を収容することが可能。また、泡消火、連結送水、換気、散水の各設備と、出入口ブザー、駐車場内監視カメラ6台が設置された。
1983(昭和58)年の第55回より、体育祭の会場が大グラウンドから記念グラウンドに変更となった。大グラウンドは、これまでと同様に体育の授業やクラブ活動で使用されている。

太鼓櫓

塾の起床や食事は太鼓櫓にある太鼓の音が合図。最初に造られた太鼓櫓は、壁もない櫓であった。そのため、雨が降ると太鼓が濡れてしまう。玉川学園創立40周年を記念して、塾生たちの手で、新しい太鼓櫓を造ることになった。設置場所は旧写真部があったところ。1969(昭和44)年7月、まずは旧写真部の建物の解体作業からスタート。次に、その土地の整地、穴掘り、コンクリート打ち。さらに鉄筋を切ったり、曲げたり、組み合わせたり。鉄筋間を細い針金で結ぶ作業は、基礎部分だけでも何千か所にも及んだ。そして、夏期休暇期間の約2か月をかけて基礎工事が終了。その後は、整然と列を作ってのバケツリレーによるコンクリート運びなどの作業。このように塾生たちは職人の人たちと一緒に、その指導を受けながら、新しい太鼓櫓造りを行った。
1970(昭和45)年7月に新太鼓櫓が完成。新太鼓櫓は、敷地面積110m2、高さ11mの大きさで、1階が物置、2階が精神養道場となっており、3階に大太鼓が設置された。大太鼓は、けやきの1本胴、直径4尺(約1.2m)で、当時くりぬき太鼓では日本一であった。
やがて塾舎での教育を発展的に解消することとなり、1987(昭和62)年に塾は閉塾となった。太鼓櫓の3階に設置されていた大太鼓は、塾での役目が終わり、中学部校舎(現在のK-12東山校舎)に移され、正面玄関に飾られることとなった。そして、2017(平成29)年に新しくなった小原記念館の開館とともに、大太鼓は再び太鼓櫓の3階に戻ってきた。

体操講習会

1931(昭和6)年9月、小原國芳は、「デンマーク・オレロップ国民高等体操学校(現・オレロップ体操アカデミー)」の創始者であり、「デンマーク体操(基本体操)」を考案したニルス・ブックを招聘。ブック率いる体操団一行26人(団長以下体操手男子13名、女子12名)が来日。来園時に、玉川学園は「オレロップ国民高等体操学校東洋分校」として承認された。これを契機に同年、デンマーク体操を中心とした第1回体操講習会を開催。この開催の意図は、基本体操すなわちデンマーク体操の普及であった。
この講習会は、毎年、全国から熱心な受講生の参加を得て行われ、参加者の健康づくりに役立つとともに、デンマーク体操の普及に貢献した。
ブック招聘以来10年が経過し、強靭、柔軟、巧緻なる身体をつくる基本体操としての玉川体操の意義が漸く広く認識されることとなった。1941(昭和16)年9月10日から19日の間、東京陸軍航空学校の士官15人と下士官15人の合計30人が、10日間泊まり込みで玉川体操の講習と訓練を受けるために来園。同年12月には宇都宮陸軍航空学校から2人が10日間、東京陸軍航空学校から35人が5日間、玉川体操の訓練を受けるために来園。近くの士官学校からも4人が研究生として参加した。翌1942(昭和17)年8月13日から20日の間、体操指導者練成会を名古屋、神戸、奈良(橿原神宮)などで行った。
デンマーク体操とは、青少年の体の基礎的改造、矯正、発育促進を目的として考案された民衆体操のこと。人間の呼吸に合わせたリズミカルな動きを取り入れた躍動感あふれる体操で、筋力の強化だけでなく柔軟性や巧緻性(機敏性)も向上させるのが特徴である。明治、大正時代より「一、二、三、四」の号令のもと、規律正しく行うスウェーデン式体操が中心だったが、その精神を受け継ぎながらも、それまでの体操を改革。
この体操講習会は、1989(平成元)年の第47回まで継続して開催された。

大体育館

大グラウンドを見下ろすように建てられた初代体育館は、玉川学園創立の翌々年である1931年(昭和6)年の大グラウンド竣工時に完成したもの。まだ全校生徒や教職員の数が300人弱の時のものであった。しかし、全校生徒や教職員の数は、1962(昭和37)年には3,000人を超えるに至った。そのようなこともあり、新たな体育館の建設は、当時学長、学園長であった小原國芳の長年の懸案事項であった。
そして新たな体育館が完成したのが、1965(昭和40)年4月20日のこと。初代体育館と区別するために「大体育館」という名称となり、あわせて初代体育館は「小体育館」と呼ばれるようになった。大体育館の広さは延べ4,000m2(1,300坪)、収容人数は約5,000人。地下1階、地上2階建て。ロビーを入って扉を開けると球技場、奥側にステージ。球技場は、バレーボールコート3面、またはバスケットボールコート2面がとれる。2階はスタンド席。地下には当初、食堂があった。食堂がなくなって以降、多目的体育場と指導室、管理室が配置されている。多目的体育場は柔道場としての利用のほか、式典での荷物預かりや学生への教科書配本などでも使用された。
大体育館はさまざまな行事等で使用されている。体育の授業のほか、大学および高等部、中学部、小学部の入学式や卒業式、通大スクーリングの開講式といった式典、大学のクリスマス礼拝、玉川学園教育研究会、玉川学園造形教育研究会、玉川学園体操講習会、大学のクラブ活動、全学教職員の集い、通大祭など。小原國芳と信夫人の玉川学園葬も大体育館で行われた。大学文化祭でも、運動クラブの試合をはじめ、前夜祭や音楽イベントでも使用。本学の卒業生で「およげ!たいやきくん」(シングル盤レコード売り上げ枚数No.1の曲)が大ヒットしていた子門真人をはじめ渡辺美里などもこの大体育館で歌った。デンマーク・オレロップ体操チームの演技も行われている。2013年(平成25)年にはロボカップジャパンオープンの会場の一つにもなった。
大体育館に加えて1983(昭和58)年には記念体育館が完成した。

田尾一一
田尾一一(左)と小原國芳

玉川学園校歌の作詞を担当したのが田尾一一(たおかずいち)である。田尾は1896(明治29)年11月18日生まれで、小原國芳の香川県師範学校時代の教え子の一人。田尾は香川県師範学校卒業後、広島高等師範学校に進学。卒業後は小樽中学校や成城中学校で教える。さらに東北帝国大学に入学して、ドイツ文学、哲学、美学等を専攻する。卒業後は旧制成城高等学校教授として赴任。
さらに玉川学園創立当時より1934(昭和9)年にかけて、玉川学園中学部、専門部の教頭を歴任する。戦後になり、東京藝術大学の学生部長、音楽学部長、音楽学部附属音楽高等学校長を務める。1957(昭和32)年から1961(昭和36)年までは玉川大学文学部講師、その後明星大学教授。1984(昭和59)年2月5日逝去。
校歌が誕生した当時の経緯について田尾は「小原先生のお宅の応接間兼食堂に小判型のテーブルがあって、それをとりまいて、毎夕新しい学校の構想をめぐって先生からお話があった。(中略)そういう雰囲気の中で、校歌が生まれた。私はその生きて動いているアイディアをそのままとらえるとでもいうような、そんな心もちでそれをまとめた」と語っている。
そして、田尾が手がけた歌詞にメロディーを付けたのが、岡本敏明だった。こうして誕生した校歌は、まさに玉川の丘で理想の教育を始めようとする小原國芳の、新しい学校への想いがあらわされた一曲となった。

田中寛一

1947(昭和22)年2月24日、大学令による玉川大学の設置が認可された。旧制最後の大学であった。大学の創立により、玉川学園は幼稚園から大学までを擁する総合学園として新たにスタートすることとなった。小原國芳の長年の夢であった新教育の実現を目指す理想の大学が、こうして誕生した。そして初代の学長には心理学者の田中寛一が就任した。
1949(昭和24)年2月21日、学校教育法による玉川大学の設置が認可された。学部・学科の構成は文学部教育学科、英米文学科と農学部農学科の2学部3学科であった。特に教育学科の設置により、新教育を主張して30年、全国を獅子吼(ししく)し続けた小原國芳の多年の願い、新教育の理念に基づく私立大学による義務教育の教員養成が初めて誕生した。その新制大学の学長には引き続き田中寛一が就任した。ただし、開設年である1949(昭和24)年8月からは波多野精一が、翌1950(昭和25)年1月17日からは小原信(学長事務取扱)が、1952(昭和27)年1月8日からは小原國芳がそれぞれ学長を務めた。
田中寛一は1882(明治15)年1月20日、岡山県赤磐郡生まれ。心理学者。1913(大正2)年、京都帝国大学文学部哲学科を卒業。東京帝国大学大学院に進学し、文学博士の学位を取得。東京高等師範学校教授、東京文理科大学(現、筑波大学)名誉教授、日本大学教授を経て、玉川大学初代学長となる。1948(昭和23)年に日本教具研究所を設立し、『田中・びねー式智能検査法』(1947年)などを公刊。日本教具研究所は後に日本教材研究所と改称。さらに1951(昭和26)年には田中教育研究所と改称した。田中は1962(昭和37)年まで所長を務めた。1957(昭和32)年に紫綬褒章受章。1960(昭和35)年には心理学者としては初めての文化功労者に選ばれた。日本の心理測定の先駆者として活躍したが、1962(昭和37)年11月12日に死去。「B式智能検査法」や「田中・びねー式智能検査法」など多くの心理検査法を考案した。

玉川アイスクリーム

「大学発」のさきがけ。大学ブランド食品のルーツは、玉川にあった。ユーミン(松任谷由実)が、「たまがわハニーアイスクリーム」を食べたときの感想を「美味しいとしか言葉が出なかった。体に良さそうな味がします」と、2004(平成16)年に雑誌ananで紹介している。
「たまがわハニーアイスクリーム」は、1970(昭和45)年に農学部の食品加工実習の「アイスクリーム製造実習」に参加した学生有志が製造したことから生まれた。学内の牧場で飼育していた乳牛からとったミルクと同様に学内の養蜂所で採取したハチミツを使用するなど、原材料がほとんど学内でとれたもので、製造過程も手作りであった。当初は学生食堂で販売していたが、1976(昭和51)年から学外での販売も開始された。ただ、生産量に限りがあることから“幻のアイスクリーム”とも呼ばれていた。そして2005(平成17)年に学内での乳牛飼育が終了したことから、アイスクリームの製造販売はいったん休止となった。
しかし販売休止を惜しむ声が多かったことから、農学部生産加工室の植田敏允技術指導員が中心となり、その復活に取り組んだ。学生と一緒に市場調査を行い、レシピ作りや原材料の選定を行っていった。そして2年間が過ぎ、2009(平成21)年5月に「たまがわハニーアイスクリーム ミルク&はちみつ」が完成した。

玉川池

本学キャンパスは、東京および神奈川を経て東京湾に注ぐ鶴見川の水源地のひとつとなっており、「玉川池」と「奈良池」という二つの池を有している。正門のところにある玉川池には、モツゴ、ヌカエビ、アメリカザリガニ、ヨシノボリ、コイなどが生息していた。1950(昭和25)年頃には釣り堀として代金を取って一般に開放。しかし、釣れ過ぎたため、釣り堀としてはこの年限りとなった。また、ずっと以前の冬場には厚い氷が張り、玉川池の上でスケートができた。
「ここに(正門付近)大きなツリーがあったらいいな」という小学部生の声を、当時の学長・学園長であった小原哲郎が聞いたことがきっかけとなって、1983(昭和58)年に玉川池の中にクリスマスツリーが誕生した。クリスマスツリーは現在も、玉川池のほとりで人々の目を楽しませてくれている。

玉川音頭
玉川学園前駅の駅前での「玉川音頭」

戦後すぐの混乱期である1946(昭和21)年、「みなさん元気を出して頑張りましょう」という小原國芳の呼びかけで「玉川音頭」がつくられることになった。当時玉川学園の教員であった田中末広と岡本敏明の二人が、それぞれ作詞と作曲を担当。踊りの振付は小原純子(後の岡田純子)が行った。
1946(昭和21)年8月15日、玉川学園前駅の駅前で行われた盆踊りで「玉川音頭」が披露された。ピアノ伴奏は岡本玉子が担当。当日は塾生たちが、ポスターの配置、会場の照明やスピーカー設置の手伝い(礼拝堂からコード類やスライダック等を運び配線)、「お客の間」からピアノを駅前に運搬などを行った。
「玉川音頭」は、1996(平成8)年3月28日発行(31刷)の『愛吟集』(玉川大学出版部)に載っている。
2018(平成30)年8月18日、玉川学園ポケットパークにおいて開催された「つばめ夏の演芸祭」(玉川学園の街を紹介するフリーペーパー『玉川つばめ通信』が主催)において、「玉川音頭」が72年ぶりに復活した。

玉川学園運動会歌

青雲はれて そよぐこずえ
見よ朝だ 風が笑う
フレフレ玉川
飛べよ走れ われら
風と走れ 玉川フレフレ

この歌の作曲を担当したのは玉川学園校歌や「どじょっこ ふなっこ」の作曲で知られる岡本敏明。そして作詞したのは、童謡作家の北原白秋。初め「成城学園運動会歌」として作詞されたこの歌は、白秋の配慮で、後には「玉川学園運動会歌」としても歌われることになった。そして、成城学園では「フレフレ成城」、玉川学園では「フレフレ玉川」と歌われた。
玉川学園運動会歌が初めて歌われたのは、1933(昭和8)年10月15日に開催された玉川学園の第4回運動会(現在の体育祭)において。なお「運動会歌」は、1933(昭和8)年、小原國芳が成城学園の校長を辞した後は、ほとんど玉川学園だけで歌われるようになり現在に至っている。

玉川学園誕生

成城学園に旧制高等学校ができると、帝国大学への入学を前提とした受験教育になっていき、小原國芳の理想としていたものと離れていった。調和のとれた人間形成を目指す学校を自らの手で一からつくり直したい。國芳が「ゆめの学校」建設に着手したのは、成城高校の校長を務めていた42歳のときのこと。國芳が理想としたのは、「宗教を教育の根底におくこと」「労作教育の使命を果たすこと」「徹底した真人間の教育を行うこと」を重んじた教育であった。
「ゆめの学校」を建設するための場所を探しに、國芳は小田急線を何度も往復。そして好条件が揃っている美しい丘陵地を見つけ購入することに。適度な起伏は「ゆめの学校」にふさわしいと國芳は考えていた。またこの地が東京府に属していたため、学校開発と同時に住宅地としての分譲もしやすく、そのことが理想の学園都市の誕生に繋がっていく。当時、新駅を設置するには、駅と駅との間が3マイル(4.8㎞)以上離れていることが条件で、それをクリアできる箇所が小田急線沿線には3か所しかなく、東京府では当地のみ。しかもこの地は、鶴川駅と町田駅の両駅から遠く離れているため地価が安いという利点もあった。
玉川学園建設は無一文からの出発であった。國芳は多額の借金をして、この地336万m2を当時の地価の3倍で買収し、その約8割の260万m2を宅地造成して分譲。残りの土地を学園の敷地として使用した。土地開発と並行して小田急電鉄と交渉。玉川学園が駅敷地及び駅舎、建築材料降荷のための引込線用の敷地を提供するという条件で、小田急電鉄は「玉川学園前駅」を新設することを確約。駅ができれば通学に便利というだけではなく、地価も上がり、この地に住もうと思う人も増える。そして、國芳は土地分譲の利益を校舎建築などの学校運営のための費用に充てることができた。
そして、1929(昭和4)年に玉川学園が誕生し、國芳の描いていた「ゆめの学校」が現実のものとなった。
4月8日に開園入学式が執り行われた。幼稚園児8人、小学生10人、中学生80人、塾生13人。全員で生徒数は111人。教職員は18人。新築の校舎には木の香りが満ちており、新入生とその親たちが希望を胸に続々と集まってきた。地域住民も大勢、祝福に駆けつけたという。

小原國芳が自伝『夢みる人』の出版にあたり、版画「ゆめの学校」を回想し挿絵として描いたもの
創立当時の玉川学園キャンパス
玉川工業専門学校

1945(昭和20)年、興亜工業大学の去った丘に、再び玉川塾を拡充し、工業専門学校を設置しようという機運が高まってきた。当時、学園内に内閣戦時研究11研究所(糸川研究所)と、その姉妹研究所であった登戸無線研究所(成田無線研究所)が疎開していたことも、その一因だ。これらの研究所を利用し、工業専門学校の教育を展開する、いわば産学協同の試みであった。また、近隣には、東中航空兵器株式会社があり、研究実習のための広大な施設利用が行えるという好条件も重なった。これらの施設の協力の下、玉川工業専門学校では、優秀な航空機の創案設計や増産、また電子工学のさらなる研究などを行うことが検討された。
玉川工業専門学校は1945(昭和20)年7月1日に開校。学科は航空機科、電波兵器科の2科。修業年は3年間と定められた。入学資格は中学校卒業者。開設年には定員の40倍の受験生が殺到した。当時園内にあった国防館を物理館とし、中学部の長い教室と旧興亜工業大学の校舎を用いて授業が進められた。また、全寮制度を導入し、「師弟同行」の精神の下、24時間の教育を行った。
しかし、玉川工業専門学校の開校後まもなく終戦を迎える。同年9月には学則変更をし、航空機科は機械科に、電波兵器科は電気科となった。さらに、機械科のなかには、工科以外の農科、文科志望者も第二部、第三部の名称の下に所属していた。これらの学生の多くは、旧制玉川大学の開設とともに、その予科に移行する。1946(昭和21)年当時の生徒数は工科(機械科、電気科)27人、農科22人、文科13人の計62人。少人数で目の行き届いた教育が行われた。
終戦後の混乱のなか、学生たちは食糧増産のための開墾に、教育研究会実施のための大労作にと奔走した。休日と学校行事以外はほとんど毎日、開墾作業が行われていたという。一方で、合唱や劇、体操なども、新教育の一環として取り入れられた。
1948(昭和23)年3月には初めての卒業生を送り出すこととなり、小原國芳は卒業生たちに「一生に一つしかない命、人生は繰り返すことができない」と命の尊さについて切々と語った。第1回卒業生は59人、翌年3月に32人の第2回卒業生を送り出すとともに、玉川工業専門学校は大学に吸収され、発展的廃校となった。

玉川塾専門部

1929(昭和4)年に(旧制)玉川中学校、玉川学園小学校、幼稚園で発足した玉川学園。翌年には(旧制)玉川高等女学校も開校し、多くの生徒が玉川の丘で小原國芳の薫陶を受けることとなる。そうした中で、教育の次の段階を目指そうという機運が徐々に高まっていった。それが、玉川塾と呼ばれる専門部の設立である。
玉川塾専門部に対して、東京府より正式に認可が下りたのは1939(昭和14)年3月のことだったが、当時の学生の手記を読むと、その構想は1932(昭和7)年頃から練られていたようで、1935(昭和10)年にはかなり明確な教育組織・体系が出来上がっていた。専門部は玉川学園における最終的な教育の場と位置づけられ、社会の指導者を養成すると同時に、当時の玉川学園の生徒指導者としても期待されていた。中学校卒業を入学資格とし、商科、文科、工科、農科、女子高等部が設置された。修業年限は3年で、女子高等部は2年だった。
さらに國芳によって1942(昭和17)年に興亜工業大学(現在の千葉工業大学)が設立されると、そちらへ進学する者も出てきた。やがて戦時体制へと移行し、修業年限の短縮、動員、応召などが相次いだ。1944(昭和19)年に興亜工業大学が玉川の丘から離れ、その後申請した玉川工業専門学校が認可となる。終戦の約半年前の、1945(昭和20)年3月のことだった。1947(昭和22)年3月に、最後の専門部卒業生が出ているが、玉川工業専門学校に移籍する者、さらにはこの年に設立された旧制玉川大学予科に進学する者もあり、専門部はその役目を終え、廃校となった。
実質的な活動期間は10年弱と決して長くはなかったが、玉川学園専門部は戦時という教育が困難な時代にあって、社会が求める「力」を育成することに注力した。

玉川体操
東京陸軍航空隊士官約30人が来園

昭和初期、玉川体操および玉川学園教諭であった斎藤由理男の指導を源として、国鉄体操、海軍体操、航空体操が誕生した。特に国鉄体操はその後も基本体操の真髄をとらえ、長きにわたって実践された。

  • 国鉄体操
    1932(昭和7)年、鉄道省より体操指導の要請を受けた玉川学園は、1930(昭和5)年から約1年1か月の間デンマークにあるニルス・ブックのオレロップ国民高等体操学校に留学していた玉川学園の体育教師である斎藤由理男を派遣。斎藤は職業体操を創作し指導にあたった。最初にその体操を導入したのは九州の国鉄小倉工場。それをきっかけに、国鉄の数多くの職場にてその体操が普及し、「国鉄体操」と言われるまでになった。
  • 海軍体操
    当時海軍では、喇叭を伴奏とする甲板体操を試行中で、玉川体操を実演してほしいということになった。そして、第二艦隊の旗艦「高雄」に玉川学園の体操団が招かれる。これが契機となり、1937(昭和12)年、デンマーク体操の普及に専念していた斎藤由理男の指導を受け、堀内豊秋少佐が創作した基本体操を導入した海軍体操教範が誕生。それが「海軍体操」として全海軍に広まっていった。
  • 航空体操
    小原國芳は、早くから海軍が導入していたこともあり、陸軍に対して体操の効用を強く説いた。そして、1941(昭和16)年に東京の立川と栃木の宇都宮の陸軍航空学校に玉川体操が導入された。この一件により、陸軍航空学校の体育指導者養成の指令が発せられ、玉川学園は全学を挙げてこれに協力。1941(昭和16)年9月10日から20日までの間、東京陸軍航空隊士官約30人が来園。学園内に宿泊して玉川体操の訓練を受けた。同年12月には宇都宮陸軍航空学校の教官約30人も訓練を受けに来園。玉川体操を導入してから数か月後に、航空体操の発表が神宮競技場において盛大に行われた。玉川学園長の一言で、陸軍航空学校の体操が一新することになったことは、関係者を驚嘆させた。
「玉川」の由来

当初から小原國芳の念頭には、「玉川学園」という名称があったようである。國芳が成城小学校校長の澤柳政太郎に請われて、同校の主事を務めていた1925(大正14)年、多摩川の西に位置する現在の世田谷区砧に新たに小学校を開設することとなった。同校は、牛込にあった成城小学校(1917年設立)と区別するため、「私立成城玉川小学校」として発足している。なお、國芳は普段から「玉川」の字を用いていたが、「多摩川」ではなく「玉川」と書いたのは、「わかりやすく、書きやすい。感じが良い」といった理由からであったという。砧の地は多摩川の流れを望める地でもあり、正式な地名ではないが、この辺りを「玉川」と呼ぶことが江戸時代の刷り物からもうかがえる。そうしたこともあり、下見のときよりこの地を訪れて以来、國芳は「玉川」の名をしばしば使用していた。
1928(昭和3)年、牛込にあった成城小学校が砧に移転し、成城玉川小学校を併合。それにより、成城玉川小学校という学校名称から「玉川」の名前が消えた。その時点で、「玉川学園」の名称は、より決定的なものとなった。同じ小田急の沿線上であることと、多摩丘陵の一部で場所も南多摩であることから、当初の想定通り、1929(昭和4)年に「玉川学園」の名称で理想の学校が開設された。
もともと、玉川学園のある土地は「東京府南多摩郡町田町本町田」という地名であったが、1929(昭和4)年の創立を契機に、小田急線の最寄駅も「玉川学園前駅」となり、1967(昭和42)年の表示改正により住所も「町田市玉川学園」となった。学校名と地名、駅名が同じに。國芳はのちに、「玉川学園」という名称について、「永遠の学校とするために、土地の名前をつけたもので、たくさんの地を提供してくださった方々への感謝の気持ちと、記念の気持ちである」とし、ことに人の名前は消えても、土地の名称は不滅であると説明している。

玉川モットー

玉川学園の正門のところに、ひときわ目を引く石碑がある。玉川池の畔に立つこの石碑に書かれているのが、玉川学園のモットーである。

「人生の最も苦しい いやな 辛い 損な場面を 真っ先きに 微笑を以って担当せよ」

このモットーのルーツは、1929(昭和4)年6月に玉川学園の初めての機関誌として刊行された『学園日記』創刊号に遡る。ここに小原國芳自身によって「喜んで、困難を友としてよ 微笑みを以つて辛苦を迎えてよ…最も苦労の多い場面を眞先に選んでよ」と書かれている。
この一文が冒頭の玉川のモットーとなり、1962(昭和37)年9月に玉川学園正門の石碑に書かれるまでには、いくつかの変遷があった。
國芳は、自身の教育の原初から、知識のみを持って社会に貢献するのではなく、自ら困難な場所へと敢えて入っていき、額に汗しながら世の中のために貢献できるような人材を育てたいと思っていたのだ。労作が欠かせない玉川の丘での学校生活は、まさにそうした教育の具現化であろう。

玉シャツ
男子児童・生徒は玉シャツを着用

省エネ対策でクール・ビズがすっかり定着したが、実は今から90年以上前にすでに究極のクール・ビズが誕生していた。それが「玉川シャツ」、通称「玉シャツ」である。
玉川学園では、夏服として男子の児童や生徒は玉シャツを着用する。玉シャツは、白色の開襟シャツで、玉川学園創立から4年後の1933(昭和8)年に誕生したという説もあるが、残念ながら正確な年月は不明。創立時に玉シャツがなかったことは確かなようである。考案者は小原國芳。國芳自らも好んで着用した。國芳ばかりではなく、男性の先生方の中にも愛用者が数多くいた。
玉シャツは、裾をズボンの外に出して着ることになっている。それはその方が涼しいからということもあるが、「ベルトは人に見せるものではない」という國芳の哲学に拠る。上着を着ている時と同じようにベルトが見えないようにするということ。つまり玉シャツは、紳士としての礼儀に叶う服装として、さわやかでしかも涼しく、クール・ビズの先駆けと言える。
玉シャツは、シャツ一枚でも上着を着ているような品格が保たれるよう、裾はまっすぐに裁断されており、襟の仕立ては曲線を生かしたイタリアンカラーを使うこだわりのあるデザインを取り入れている。日本の熱い夏を乗り切るために、玉シャツを考案し、児童や生徒、教職員に着用させた國芳の先見性は素晴らしいと言えるだろう。

小(ち)さい花

ちさいはな  はこべの花
お母さんの  花
野原に  そっとさいて
いつも僕を  みてる花
ちさいはな  はこべの花
お母さんの花
ちさいはな  はこべの花
お母さんの  花
きよらに  そっとさいて
いつもやさしく  笑(え)まう花
ちさいはな  はこべの花
お母さんの花

学校劇『少年の頃』

1947(昭和22)年12月1~2日、「新教育三十年、玉川学園創立二十年、玉川大学創設、小原國芳先生還暦」を記念して小原教育記念会が開催された。1日は玉川学園内において記念式、2日は神田の共立講堂にて芸能発表会が行われた。
芸能発表会の一部は音楽発表、二部は体操発表、三部は岡田陽指導による学校劇『少年の頃』の上演。『少年の頃』は小原國芳の同名の著作をアレンジしたもので、配役は小学生から大学生まで20人余り。そして、劇中歌として「小さい花」が作られた。作詞は岡田陽、作曲は柳沢昭。
なお、1949(昭和24)年2月、玉川大学出版部から『玉川 学校劇集2』が刊行され、その中に学校劇『少年の頃』が収録され、「小さい花」の歌詞も掲載された。

地球はわれらの故郷なり

「地球はわれらの故郷なり」とは、小原國芳の親しい友人であるスイスの教育家ヴェルナー・チンメルマンが2度目に玉川学園を訪れた時に語られた言葉である。この言葉は、12の教育信条の「国際教育」の中にも謳われている。
國芳は、著書『教育一路』でつぎのように語っている。

「地球は、われわれの故郷である」とは、スイスのチンメルマン博士が昭和二十四年、二度目の来園をした時の言葉。宇宙時代にはいった今日、この言葉があらためて思い出されます。地球がすべての人々の故郷になるためには真の世界平和を実現しなくてはなりません。子供と教育とを通して、“世界仲良し”を実践してきました。洋の東西から年々、千名前後の研究者の来園です。
教育というものは、教室の中だけで行われるものでなく、地球上のあらゆるところが、宇宙のすべての場所が教育の現場でなければなりません。学生、生徒の国際交流はもとより、先生たちの交流にもつとめました。玉川学園ほど国際交流、国際親善に寄与している学校はない、と自負しております。

チンメルマン(ヴェルナー・チンメルマン)
初来園時 昭和5(1930)年

小原國芳の親しい友人であり、欧州における玉川通として知られたチンメルマンは1893(明治26)年に生まれ、ベルン大学で教育学を修め、ペスタロッチの教育に憧れて山村の若い教師となり、さらには、青少年の健康の自由生活運動の指導者として活躍したスイスの教育者である。
チンメルマンは、1930(昭和5)年、日本の客船に乗ってハワイを経由し、初めて日本を訪ねた。東北の弘前に行った時、「日本にもペスタロッチがいる。今から一年前、彼は東京の郊外玉川の丘に、スイスの大偉人の思想に基づいた教育塾を創立し、それを指導している。スイスから来た教師と知ったならば、さぞ喜ぶだろう」と、チンメルマンに伝えた人がいた。そしてチンメルマンは、玉川の丘を訪れた。
チンメルマンが初めて玉川学園にやって来たときのいでたちは、帽子もかぶらず、ネクタイもしめず、玉川シャツのような上衣に半ズボンで、めったに靴下もはかず、革製のワラジをはいて、リュックサック一つだったという。國芳が語っている。「全く、神武天皇の再来かと思いました。一見して好きになりました。魂の融け合い。玉川においてくれと。しかも、学生と一緒に住みたい。40日も一緒に生活してくれました。しっかり写真におさめて持って帰りました。ドイツ語の教え方も素敵でした。スイスの歌や踊りも教えてくれました。ピアノも中々巧みでした。山の人だし、乳しぼりも上手だし、山のぼりは特に」と。生徒たちもすっかりなついて、『チンさん』の愛称で人気者となった。

4度目の来園 小学部にて 昭和33(1958)年

玉川学園を初めて訪れた翌年の1931(昭和6)年には、欧米へ教育行脚に出た國芳の、ドイツ、オーストリア、スイス各地での講演の通訳をチンメルマンがつとめた。國芳の海外の視察と講演行脚は、ヨーロッパ、北米、中南米、中国、韓国など戦前、戦後を通じて十数回を数えるが、そのきっかけとなったのがチンメルマンであった。戦後、國芳はチンメルマンの案内のもと、再びヨーロッパ各地で40回にわたる講演を行っている。
チンメルマンは1949(昭和24)年に続いて1953(昭和28)年にも玉川学園を訪れ、その際の旅行記を『東方の光、精神的日本』と題して執筆している。4度目の玉川学園訪問は1958(昭和33)年に奥様と、そして1977(昭和52)年の5度目の訪問は単身で、しかも2か月にわたって國芳宅の客となった。このとき、國芳は90歳、チンメルマンは84歳であった。二人の初めての出会いから47年の月日が流れていた。そして1980(昭和55)年の秋には、玉川大学名誉教授として玉川学園創立50周年記念式典に出席するために6度目の訪問。しかし、1977(昭和52)年12月13日に國芳は他界しており、二人の再会は実現しなかった。
そして、チンメルマンも1982(昭和57)8月29日、祖国スイスの地において89年の人生を終える。親日家であったチンメルマンは、日本の宗教、文化を研究し、『アジアの光』や『光は東より』などの本を出すとともに、『未来の学校-小原國芳の人と仕事』を書くなど玉川学園を「第二の故郷」と慕う教育家であった。

デューイ(ジョン・デューイ)
デューイ夫人と小原國芳夫妻デューイの肖像画の下で

20世紀アメリカの思想の主流といえるプラグマティズム。この思想の提唱者のひとりとして知られるのがジョン・デューイである。デューイはその思想を社会、特に教育の分野で実践したことで名を残した。小原國芳が牛込成城小学校で取り組んでいた第一次新教育もデューイが提唱した教育の原理・方法を用いていた。
1894(明治27)年にシカゴ大学の哲学科の主任教授として招かれたデューイは、2年後の1896(明治29)年、シカゴ大学内に実験学校(Laboratory School)を開設する。それは、教育学は化学や物理学と並ぶ一つの実験科学であるという彼の理論の検証の場であった。大学の近くの民家を使い、16人の子供に教育を行うことからスタートした。
デューイは学校教育において子供たちが知性的な行動を身につけてその能力を育てることや、協調性を身につけることを重視した。そのためには子供を中心とした社会を構成し、その中で子供たち自身が目標に向かって協調していくことこそ大切であると考えていた。そこでデューイがカリキュラムの中心に据えたのがオキュペイション(occupation)である。一般的に仕事や労働と訳されるが、デューイはこのオキュペイションを嫌々行う「作業」とは切り離して考えていた。つまり、子供たちが目を輝かせて取り組むような社会的活動を通して、知識を吸収し、人間として成長することを目指したのである。そしてデューイはこうした学習経験から、民主主義を支える一員となっていく能力が育つと考えたのであった。
デューイの実験学校は1903(明治36)年まで続き、のちに「デューイスクール」と呼ばれるようになる。こうした教育学の分野での活動が評価され、デューイはアメリカ心理学会の会長にも選出されている。1904(明治37)年にはコロンビア大学の哲学科教授に就任し、翌年にはアメリカ哲学会会長にも推挙される。こうしてデューイはアメリカの哲学・教育学の分野の第一人者として知られるようになるのである。
1919(大正8)年、デューイは日本へ招聘され、東京帝国大学で8回の講演が催された。デューイの来日から既に一世紀が経っているが、彼の提唱した教育哲学や教育法は、アメリカや日本はもちろん、世界各国の教育の現場で息づいている。
1952(昭和27)年、デューイは惜しまれつつも93年の生涯を閉じる。彼の優れた功績から日本でも「日本デューイ学会」が発足。多くの研究が行われている。デューイの死から3年後の1955(昭和30)年にはデューイ夫人が来日。日本各地で行われたデューイ追想記念講演会で登壇すると同時に、玉川学園にも足を運んだ。
デューイスクールは設立間もない玉川学園に通ずる部分も非常に多く、デューイと小原國芳が目指そうとした教育は非常に似通っていたのではと感じさせる。デューイ夫人はその後、1969(昭和44)年にも再来日を果たしている。玉川学園で開催のデューイ来日50周年の祝賀会に招かれてのことだった。

デンマーク体操

デンマーク体操とは、デンマーク人であるニルス・ブックによって確立された体操で、青少年の体の基礎的改造、矯正、発育促進を目的として考案された民衆体操のこと。人間の呼吸に合わせたリズミカルな動きを取り入れた躍動感あふれる体操で、筋力の強化だけでなく柔軟性や巧緻性(機敏性)も向上させるのが特徴である。スウェーデン体操の精神を受け継ぎながらも、それまでの体操を改革。現在朝の体操として親しまれているラジオ体操は、リズミカルなデンマーク体操の影響を受けてつくられたといわれている。
玉川学園が創立以来取り組んできたデンマーク体操は、小原國芳と「デンマーク体操(基本体操)」を考案したニルス・ブックとの出会いによって日本に紹介された。ブックは、1920(大正9)年に「デンマーク・オレロップ国民高等体操学校(現・オレロップ体操アカデミー)」を創設した。そして玉川学園は「オレロップ国民高等体操学校東洋分校」として承認された。
デンマーク体操を独自に取り入れた「海軍体操」が全海軍に普及。海軍のほかにも、航空隊や商船学校、鉄道省が積極的にデンマーク体操を取り入れ、「航空体操」「国鉄体操」「職場体操」が作られた。さらに、1932(昭和7)年には全日本体操連盟によって創案された「ラジオ体操」(第二体操)にも、デンマーク体操の原型が取り入れられた。デンマーク体操はこうして、さまざまに形を変えながら普及。全国津々浦々、日本国民の健康づくりに貢献してきたといえるだろう。

その後も、本学は「オレロップ国民高等体操学校東洋分校」として、デンマーク体操の講習会を頻繁に行い、体育教員をデンマークに派遣、体操の研究・普及に尽力した。これらの教員の指導の下で、毎年の本学の体育祭では、「徒手体操」や「転回運動」、さらに「こん棒体操」「旗体操」「ボール体操」「リング体操」を中心に、デンマーク体操の発表が行われている。また日常的には、球技や水泳などのウォーミングアップのなかにデンマーク体操が取り入れられている。
また、オレロップ体操アカデミーでは、体操を修得した者に対し、OD章(体操学校のある地名Ollerupの頭文字と、デンマーク語で「社会に奉仕する人」の意味でDelingsfrereの頭文字Dをとったもの)を授与しているが、オレロップは本学に対し、OD章の授与権も認めており、東洋分校が授与するOD章にはOとDのアルファベッドの間に東洋分校の所在する玉川学園の頭文字Tが入れられた「OTD章」が用いられている。

徳富蘇峰

1929(昭和4)年に玉川学園が創立した際、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に「憂うつな時代を捨てて寺子屋の再興、現代教育に反旗をひるがえす勤労を掟の玉川学園」という徳富蘇峰(とくとみそほう)が書いた文章が掲載された。
徳富蘇峰(1863年~1957年)は、ジャーナリスト・歴史家であり、近代日本の言論史上における巨人と言われている。明治・大正・昭和の時代を跨いで、文筆活動と政治文化活動は多岐に渡り、その成果は莫大なものである。
蘇峰は、1935(昭和10)年6月9日に玉川学園を訪れた。そしてそのときのことを『東京日日新聞』の夕刊コラム「日日だより 武相の翠色」で紹介。創立期の玉川の印象が客観的で的確かつ丹念に描かれ、日本全国に報じられたことは、本学園にとってたいへん名誉であったことは言うまでもない。
蘇峰が玉川学園に来園したのは、このときが初めてではなく、本学園創立間もない1929(昭和4)年の7月7日に最初の来訪記録がある。蘇峰は生徒たちに、自学自得は学問の本(もと)である。一般に学問というと本を読むことだけのように考えられているが、それは誤りである。鋸をもって薪をひくことも、鍬(くわ)をもって耕すことも皆ことごとく学問である。と労作教育の重要さを語ったと言われている。
蘇峰と小原國芳の交流は、玉川学園創立前、1927(昭和2)年の澤柳政太郎の葬儀の折に出会ってからである。蘇峰は雑誌でも國芳の活動を取り上げ、その志に共感し応援していた。蘇峰は「小原君の一面」と題して、1933(昭和8)年『女性日本』第16号(9月号)にも寄稿している。
その後國芳は、1951(昭和26)年と1956(昭和31)年の2度、熱海の伊豆山の自宅に出向き、晩年の蘇峰のもとを訪れた。書物で埋まっている書斎で、二人はしばし懇談の時間を持った。最後に2人が会ったのは、蘇峰95歳のとき、神奈川県中郡二宮町にある蘇峰堂(現在の徳富蘇峰記念館)における詩碑除幕式に、國芳が出席したときであった。

どじょっこふなっこ

玉川学園では、日頃の体操と音楽の成果を地方へと伝えていこうということになり、当時日本各地で講演を行っていた小原國芳と共に全国を回る公演旅行が開始された。最初の公演旅行は1936(昭和11)年の4月から5月にかけて、東北地方を回ることで実現した。
この公演旅行で秋田市郊外の金足西小学校を訪れ、体操や合唱の披露が終わった後、一行の歓迎会が催された。歓迎会は玉川学園の合唱と秋田県の民謡やいろいろな芸能を交互に発表し合うというかたちで行われた。何度か交歓が行われた後、秋田側で指名により立ったのが中道松之助。この先生がたまたま歌ったのが、「どじょっこふなっこ」の原曲だったのだ。ただ、この時に披露されたのは「ハァー、春になれば氷(すが)こもとけて・・・」といった詩吟調のもので、現在歌われているメロディーとは全く違ったものであった。当時音楽教師として同行していた岡本敏明が興味を示し、その場で男声合唱用に採譜を始め現在のメロディーに仕上げた。やがて会が終わる頃になると、今度は生徒たちが、混声三部の合唱で「どじょっこふなっこ」を先生方に披露した。会場内は大いに盛り上がったという。
こうして「どじょっこふなっこ」は、この歓迎会の会場で誕生した。そしてこの歌は生徒たちによってすぐに練習され、翌日の本荘市での公演でも披露。大喝采を受けたという。今では日本の誰もが知っているこの童謡が誕生した背景には、こんなエピソードがあったのである。

トーテムポール

日本最大級のトーテムポールが、屋内プール前広場の植え込みの中に茶褐色の太い柱の堂々とした姿で立っている。このトーテムポールは、マラスピナ大学(現在のバンクーバー・アイランド大学)より、玉川学園創立50周年のお祝いと、1979(昭和54)年に玉川学園が友好のしるしとして同大学構内に築園寄贈した日本庭園(玉川ガーデン)の返礼として贈呈されたものである。
高さ9メートル、最大径1.3メートル、重さは3トンのこのトーテムポールは、バンクーバー島産の樹齢300年を超えるウェスタン・レッド・シーダーを彫り上げたもので、玉川学園発展の願いをこめて、北米ファーストネーションのハイダ族のレック・デビットソンとロバート・デビットソンの兄弟によって、約6か月の歳月をかけて制作された。
このトーテムポールは、1980(昭和55)年12月6日に完成し、24日にバンクーバーから船に乗り、12日かけて1981(昭和56)年1月5日に東京港へ。さらに5日かけて1月10日に玉川学園キャンパスに到着。献納式のために来日したデビットソン兄弟の手により、1月18日・19日の両日を使って最終的な仕上げが行われた。

トーテムポール献納式

図柄は上より首長の帽子をつけた男、主紋章の一羽の鷲、唇飾りをつけた身分の高い女、鶏、蛙、ビーバー他の順に彫られている。首長の帽子をつけた男の帽子がリングハットではないので族長ではないのかもしれない。ビーバーの尾っぽのところに彫られている顔は作者の一人という可能性がある。鷲は氏族の紋章であるが、鶏と蛙はカエルの復讐のモチーフであると考えられる。これほど本格的なトーテムポールは世界でも数少なく、日本では初めて。そのため、玉川学園のトーテムポールは、『トーテムポール世界紀行』(浅井晃著)にも世界の代表的なトーテムポールの一つとして紹介されている。
トーテムポール献納式は、1981(昭和56)年1月19日午前11時から屋内プール前広場において行われた。献納式には、マラスピナ大学長、同大学評議会議長、カナダ大使代理、デビットソン兄弟、ナナイモ市長らが来日し参加。玉川側からは小原哲郎学長はじめ各部長、それに小学部生・中学部生・高等部生の代表約300人が参加した。

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